角栄の「日本列島改造論」がはらんでいた「矛盾」とは?
角栄とその時代 その6:「貧困」から「飽和」へ
自分のやることすべてが社会のためになった
平野氏と編集部は角栄関連書籍を整理しながら、この連載を進めている。
さて、今回は、角栄自身の政治理念である「日本列島改造論」の「矛盾」についてである。「生まれた土地で不幸になるのはおかしい」と、明治維新後の故郷、《裏日本》新潟に政治の光を目的することをした角栄の政治を一言で表せば、「社会資本の《平等な》整備」だということは先に述べた。
その時代文脈は、敗戦を通じて、戦後憲法、復興経済のもとで、道路など社会インフラが整備され、都市と農村の「過疎・過密」を解消するはずだった。《裏日本》積年の民衆の怨念が、公共投資とともに整備され、晴らされるはずだったのである。
特に、「日本列島改造論」で目を奪われるのが、交通(道路・新幹線)の建設的拡大である。さしずめ角栄は、少年の頃の体験を「地でいく」ように、社会の成長と自分の権勢を「右肩上がり」に重ね合わせた。自分のやることすべてが社会のためになったからである、
1933年(昭和8年)、高等小学校を卒業した角栄は、救農土木工事をはじめ、「ねこ車」で土石を運んでいた。その時、現場におもしろいおじさんがいて、角栄にこんな話をした。
「土方、土方というが、土方はいちばんでかい芸術家だ。パナマ運河で太平洋と大西洋をつないだり、スエズ運河で地中海とインド洋を結んだのも、みんな土方だ。土方は地球の彫刻家だ」(田中角栄『わたしの少年時代』)
1972(昭和47年)年に総理になるまでの約40年の日本の歩みは、まさに土方の「彫刻」による、日本の全国総合開発だった。日本社会と角栄自身の「成長曲線」は右肩上がりに重なった。しかし、時代は、「飽和」を迎えようとしていた。
その時、角栄の政治生命が斜陽化していく。と同時に、角栄を育んだ《裏日本》の土地も、《表日本》の土地も等しくカネで「値踏み」されるバブルに突入していく。
〈だから田中角栄の列島改造論は、日本の風土神の征伐史でもあったと俺は思っている。そういう神々が大地から追放されることによって、大地と神と三位一体だった農民もぬみんじゃなくなってサラリーマンになっていく。それが、七〇年代初期に起こったんだね〉(吉田司『王道楽土の戦争 戦後60年篇』NHKブックス)
ふるさととしての土地もいつしか「投機」の土地に変質していったのである。角栄の「列島改造論」の是非を平野氏に聞いた。
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