「決戦すること、それ自体が目的」謙信VS信玄、第四次川中島合戦の真実
謙信vs信玄 川中島合戦の真相(上)
「甲陽軍鑑」を見直す
いわゆる「第四次川中島合戦」は、今から四五〇年前の永禄四年九月十日に行われた。現在通用されるグレゴリオ暦に換算すれば、一五六一年十月二十八日である。
この合戦は、当代一の名将同士が高度な戦略を仕掛け合い、異常な戦意で決戦し、両軍の八割近くが死傷したものとして伝説化されている。軍隊は全体の三割が崩壊すれば全滅扱いとなるから、史上類を見ない未曾有の大決戦だったといえよう。
しかし研究者の多くは、基礎資料とされる『甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』)以外に良質の史料が乏しく、『軍鑑』にしても江戸期に広まった軍記であり、記述内容も無批判に使える文献ではないことから、合戦の実相は全くわからないとされている。特に、いわゆる「啄木鳥戦法」や両雄の「一騎討ち」など、神話的で読み物的な展開が、『軍鑑』の史料価値を落としているという。近年では、政虎の妻女山布陣が困難との指摘もあり、通説にあるような合戦像は全く成立しないとの見方が強まっている。そのためか戦記内容に縛られない「合理的解釈」によって、無数の「真相」が提唱されてきた。通説への疑問が、文献離れの傾向を招いているのである。
ここでは近年出された指摘を組み入れつつも、あえて史料重視の形を取り、原則的には『軍鑑』の物理的展開に従って、合戦の再現を試みたいと思う。特に断りを入れない限りは『軍鑑』に基づいた記述をしていく。