戦国時代の問題児・伊達政宗。全身傷だらけだった衝撃の理由
戦国武将の男色事情【前篇】
政宗、小姓に平謝りの手紙を送る
政宗が作十郎に謝罪しなくてはならなくなったきっかけは、政宗が作十郎が浮気をしているのではないかと邪推したためでした。要はまた余計なことを思いついたのです。そして、酒の席でよせばいいのに、「お前浮気してるだろう」といらんことを言ってしまいます。
結果、作十郎はめちゃくちゃ怒り、我が身を傷つけて、その血で潔白を主張する手紙を送ってきました。驚いた政宗は弁明の返書を送るのですが、このときの手紙は今でも現存しています。
以下、政宗には気の毒ですが、佐藤憲一さんの『伊達政宗の手紙』掲載の書き下し文から私が抄訳したものを大公開します。
別にお前のことを疑っていたわけではないのだ。そんな気持ちは毛頭ない。ていうかそもそも酔っぱらってて、何を言ったか全然覚えてない。
以前、お前が仕事を休んだとき、浮気してるって、乞食坊主が告げ口しやがったのだ。
お前に限ってそんなことないって信じていたのだが、少し注意のはずが、酒の勢いで、ついついきつい言い方になってしまった。
本当は、お前との仲をこれまで以上に強くしたいというのが、本心だったのだ。
それにしても、酒の上とはいいながら、よっぽどわたしの言葉に傷ついたのだな。刀で自分の腕を切って、血判を押したなんて、本当に胸が痛む。
もし、わたしがその場にいたら、刀にすがりついてでも止めていた。
お返しに指を切るなり、股か腕を突くなりして、真実を見せたいところだが、わたしも孫のいる年だろう。「年甲斐もなく」なんて笑われたら恥ずかしいんで、その気持ちをおさえてる。
いや、若いときだったら、酒の肴みたいにするのだぞ。でも、もう本当いい年だし、自分だけでなく、子供まで笑われてしまう。
日本中の神様に誓っていうけど、腕や股を突くのがいやだから、やらないと言っているのとは違う。
お前も見た通り、わたしの腕や股は傷だらけで、隙間もないくらいだ。若いときは、簡単にそういうことをやったもんだが、最近は時代も変わってるし、そんなことしたら、かえって世間の笑いものになるかもしれん。
かといって、このままではお前に申し訳がたたないんで、伝蔵が見てる前で起請文を書いて、血判押して送ります。
どうか、これで勘弁してくれ。今日からはこれまで以上に気安くして、仲良くしてくれたら嬉しい。
詳しいことは(この手紙を持参した)伝蔵から聞いてくれますよう。
本当に自分のやったことが恥ずかしい。どうか、わたしの気持ち分かってくれ。
長かったと思いますが、原文はもっと同じことを繰り返し、繰り返し書いていて、うんざりします。
手紙のなかには、腕を切るとか、股を突くと書いてありますが、当時、男色の誓いとして我が身を傷つけるのは一般的なことだったようです。1678年出版の藤本箕山の遊郭百科全書『色道大鏡』には、政宗もやった「貫肉」のほかに「刺青」「指切り」「爪放し」などの方法が紹介されています。
死に装束で土下座とか、弁明に金箔の十字架を抱えていくとか、アクロバティックで自虐的な謝罪が得意だった政宗は、小姓相手にもそうだったようで、若いときは、何かあれば、腕を突いたり、股を突いたりして、少年の機嫌を直してもらっていたようです。
しかし、五十歳も過ぎると、さすがに体力的にきつくなったのか、この手紙では、くどくど、くどくど、出来ない言い訳を並べ立てています。「人から笑われる」という言葉が何度も出てくるのが、生涯かけてかっこつけることにこだわってきた政宗らしいですね。
そ れにしても、冒頭で「酒に酔って何も覚えてない」と書いたわりに、すぐ次の文章で、「乞食坊主の入れ知恵で」とか「きつい言い方してしまって」とか、しっかり覚えてることがバレバレなのはどうなんでしょう。信玄といい政宗といい、美少年の前では、知恵の鏡がくもるのか、自分が何を書いているのか、分からなくなってるんじゃないかという文章になっています。
作十郎が機嫌を直したかどうかまでは記録に残っていませんが、とにかくリカバリーショットだけは天下一うまかった政宗のこと、このときも何とか、怒りをなだめてもらい、元のさやに戻ったのではないでしょうか。
(後篇に続く)
【『なぜ闘う男は少年が好きなのか』より構成】
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