給料・規律、隊士の日常生活
新選組、その知られざる組織の実態 第3回
給料は徹底した実力主義
隊服は決死の覚悟をあらわしていた
結成当時、新選組隊士の格好はみすぼらしく、刀がなければ武士に見えない者も多かったようだ。袴にきちんと折り目がある者などほとんどいなかったという。
文久3年(1863)4月頃、新選組は大丸呉服店に隊服をつくらせた。「誠」の文字と「ダンダラ(山形)」の模様が染め抜かれた浅葱色のものだった。このダンダラ模様は当時、庶民に大変人気があった芝居「仮名手本忠臣蔵」の舞台衣装からとったものだという。また浅葱色は武士が切腹する時に着用する「切腹裃」の色からとったもので、決死の覚悟をあらわす色だった。ただ、この隊服は夏服で、素材が麻のため安っぽかったことと、デザインが派手すぎたことから、池田屋事件以降はあまり着ていないようである。実際に着ていたのは約2年間だった。
隊士は給金を与えられて生活していた。文久3年9月当時、京都守護職・会津侯から隊士1人につき3両ずつ支給されていた。また永倉新八の遺談によると、局長の近藤勇が50両、副長の土方歳三が40両、副長助勤クラスが30両、平隊士が10両だったという。これは池田屋事件以降か、幕臣となった慶応3年(1867)6月以降の話であると考えられる。
実績重視の新選組では、通常の給金に加え、活躍すればその都度お手当が出された。たとえば池田屋事件でのお手当は、真っ先に突入した近藤勇が金30両、沖田総司、永倉新八、藤堂平助が20両だった。
隊士の職務は市中見廻り、反幕府派浪士の探索と取り締まり、将軍や幕府要人が外出する際の警護などであった。
市中見廻りは通常2つの隊で行った。抜き身の槍を持ち、高下駄を履いて巡回したので、命知らずの志士も新選組に出くわすと路地に逃げ込んだという。隊士は少しでも怪しい人物を見つけると交代で張り込み、時には行商人や乞食に変装して、その動向を探った。また人の噂などを耳にする機会が多い髪結いや易者などを手なずけて情報収集も行っていた。
子母沢寛『新選組始末記』は文久3年(1863)5月頃、隊士の生活を律する「局中法度」が成立したと記す。「武士道に背く行為をしてはならない」「新選組を脱退することは許されない」「勝手に金策をしない」「勝手に訴訟を起こさない」「私事で争わない」の5ヵ条から成る。
これらに背く者は誰であれ切腹を命じられた。これほど厳しい法度が作られたのは、新選組はさまざまな身分の集団であり、烏合の衆になりやすかったからである。鉄の規律で押さえつけ、武士らしく振る舞わせることが必要だったのだ。このような禁令が存在したことは永倉新八の遺談からも明らかである。ただ「局中法度」という名称や条文の内容については子母沢が創作した可能性が高い。