ちょい足し? 引き立て役? 美女ジャケ中の“男の後ろ姿”の役割
【第13回】美女ジャケはかく語りき 1950年代のアメリカを象徴するヴィーナスたち
■ロマンスの神さま、この男でしょうか
1960年代までの美女ジャケ黄金期には、男女の抱擁ジャケというのがけっこうあった。そういうロマンティシズムがまだまだ人々の心をくすぐったのだ。
ところが1970年代に入ると、ひとりの美女の大写しといったような、わかりやすく即物的なものばかりが多くなってしまう。なぜ、男女が抱擁するジャケは人気がなくなってしまったのだろう?
それを探るには映画での「抱擁」の歴史をさかのぼってみることが、ヒントになる。
映画の草創期、抱擁やキスは一種の冒険でもあった。映画が発明されて間のない1896年のこと、あのトーマス・エディソンのスタジオは「The Kiss」という50秒の短編をつくる。これは劇場演劇でのキスシーンをそのまま撮ったものだが、話題騒然、大人気となった。
若くも美しくもない男女がキスし続ける映画なのだが、カトリック団体や婦人団体がこれに噛みついた。「人前で不必要に長いキスをすることは、公序良俗に反する」という趣旨で。結果、「The Kiss」は映画史上初めての上映中止作品となった。
しかし、人々が観たいものを提供するのが映画という娯楽だ。
キスシーンは1910年代には当たり前になり、男女の抱擁シーンは、1920年代後半からはどんどん扇情的になる。そこに大恐慌が来て、映画産業は観客減少を食い止めるために、より刺激的なシーンを盛り込むようになった。1929年から1934年までのハリウッド映画には、かなり扇情的なものや倒錯的な雰囲気を醸し出すものが多い。
そうなるとまたカトリック団体や婦人団体が抗議し出す。その抗議に対して映画産業が自主規制のカタチでつくったのが、1934年に施行される「ヘイズ・コード」と呼ばれる倫理規制条項だった。だから1934年以降の映画では、性的な表現は抑制されたものになる。
ヘイズ・コードは、映画での表現規制を事細かに決めた条文で成り立っているが、そこには異人種間の性的関係を示唆してはいけないとか、キスの仕方についてまで細かな指示を入れていた。
馬鹿げたことにキスシーンはフィルムの長さにして1フィート(約30センチ)以内と定められた。
保守派のモラルというのは、今も昔もともかく細かいところにまでじつにうるさいのだ。
だからヘイズ・コードが有効だった1950年代までのアメリカ映画のキス・シーンは短いし、上品さを保っている。ヒッチコックはキスシーンを短めにカットして検閲を逃れながら、それをうまくつないで情熱的なキスになるように編集した。
1960年代後半からはヘイズ・コードが効力を失い、キスや抱擁の演出にも規制がかからなくなったが、人間というのは規制が存在したほうが、その規制の限界を試みようとするものだ。ハードコアのポルノが解禁された1970年代初頭には、逆にキスや抱擁そのものが映画のなかで衰えていった。
同時期、“アメリカン・ニューシネマ”と呼ばれる一群の映画が登場する。ロマンスに収斂されてゆくハリウッド映画に対し、鋭利に現代を切りとる姿勢がこの種の映画の斬新さだったが、それは甘美なロマンティシズムを葬り去る役目も果たした。
これ以降、映画はロマンスは添えられはするもののアクションやホラーなど、より強い刺激に、あるいはよりシリアスなドラマとなって、古典映画の大恋愛や悲恋のようなものは、めっきり減ってしまった。だから映画そのものから古典的なラヴシーンが失われてしまったのである。
前振りが長くなったが、1950~60年代の美女ジャケに男女が抱擁写真が多いのは、まだロマンス健在という時代背景があってのことだ。
さて50~60年代に数多くリリースされた、ロマンティックな抱擁写真を使った美女ジャケの1枚がジョニー・ガルニエリの「Cheerful Little Earful」。モノトーン写真の地にピンクを敷いて、お洒落でモダーンな雰囲気だ。
ピアニスト、ガルニエリの演奏はジャズだが、タイトル曲はもともと歌詞がある曲で、内容は「ほら、耳元で繰り返されるちょっとした楽しい言葉があるでしょう。それは…きみを愛している…というフレーズ」といったようなもの。この写真は男性が耳元で「愛している」と言った瞬間なのである。
デザイン的に言うなら、後ろ姿の男性のトリミング、女性の顔のジャケに占める分量など、じつに見事。
ポール・ウェストンの「music for Romancing」もよく似た構図の写真だが、女性をジャケの下半分に入れ込んで、上にタイトルを置くための空間をつくっている。
この2枚を比べると、デザイン的にモダーンで新しい時代を感じさせるのは、圧倒的にガルニエリのアルバムのほうだ。
対象を大きく扱って即物的にしたほうがモダーンに感じる。デザインにおけるモダニズムとはそのようなもの。
ところでどちらも男は哀れというくらいに添え物扱いだ。美女の表情を、さらに彼女の情感を際立たせるための演出だから、これはしょうがない。
やはりモダーンで、さらにカジュアルな雰囲気もあるレス・バクスターの「Love is fabulous thing」では、男は無理矢理、顔を隠している印象だ。ともかく彼女の恋愛的情感の高揚がわかればいい、といった具合で、男はもう女性の頸(くび)に巻いた手だけでも充分という感じでもある。
ここまで紹介した3枚をデザイン視点で比べてみるとよくわかるのだが、ガルニエリとバクスターのアルバムの写真は、タイトル文字を置くための空間をつくってない。文字は、写真のどこかにレイアウトしているのだ。
それに対してポール・ウェストンのジャケ写真や、これから紹介する5枚のジャケ写真は、どれもタイトル文字を置く空間をつくっている。
デザイン的にモダーンだと感じさせるのは、圧倒的にガルニエリとバクスター。ということは、タイトル文字の配置を気にせずに写真を優位に立たせ、文字はさほど大きくなく、どこかに入れ込むといった手法のほうがデザインはモダーンになるということだ。
そしてもうひとつ、女性の顔を上向かせてセクシーに魅力的に撮るには、やはり男は女性の頸のあたりを責めないとね、ということ。
そんな攻略をしているとき、唇を閉じている女性なんてまずいない。ほら、みんな開いているでしょう?
そしてもっと情熱的な愛の瞬間を捉えたのが、こちらもポール・ウェストン楽団の「Music for a rainy night」。ちょっと古くさい雰囲気ながら、これはかなりエロいとも言える。
女性の喜悦にむせぶような表情(と「喜悦」なんて単語を思い浮かべるからエロく思ってしまうのか……)、そして雨の滴がしたたる濡れた窓。女性の顔の部分だけ、窓ガラスを拭いたという設定だが、おそらくこれは精妙な合成だと思う。
なぜなら滴は垂れるわけだし、女性の表情も最高の一瞬を捉え、拭いた箇所に滴が垂れてこない状態を撮るのは至難の業だから。
情熱的に手を回された男のほうは、されるがまま、なんか木偶の坊のようでもある。女性の圧倒的な情熱を前に躊躇している妻子持ちの男、なんてストーリーが浮かぶようだ。
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