【日本遺産】おおらかなる信仰の会津旅〈巡礼を通して観た往時の会津の文化〉
福島県【会津若松市】【喜多方市】【南会津町】【下郷町】【檜枝岐村】【只見町】【北塩原村】【西会津町】【磐梯町】【猪苗代町】【会津坂下町】【湯川村】【柳津町】【会津美里町】【三島町】【金山町】【昭和村】
【日本遺産のストーリー】
会津の三十三観音めぐり ~巡礼を通して観た往時の会津の文化~
磐梯山信仰を取り込み東北地方で最も早く仏教文化が花開いた会津は、今も平安初期から中世、近世の仏像や院が多く残り「仏都会津」とよばれる。その中でも三十三観音巡りは、古来のおおらかな信仰の姿を今に残し、広く会津の人々に親しまれている。
会津藩祖、名君保科正之が定めたといわれる会津三十三観音巡りは広く領民に受け入れられ、のちに様々な三十三観音がつくられた。会津の三十三観音は、国宝を蔵する寺院から山中に佇むひなびた石仏までいたるところにその姿をとどめており、これら三十三観音を巡った道を、道中の宿場や門前町で 一服しながらたどることで、往時の会津の人々のおおらかな信仰と娯楽を追体験することができるのである。
— 会津旅をもっと深く楽しく —
■仏都(ぶっと)・会津の歴史を訪ねる
徳一によって開かれた会津の仏教文化と名君の妙案がつくりあげた観音めぐり
平安時代に花開いた会津の仏教文化
最初に向かったのは磐梯町にある史跡慧日寺跡。慧日寺は奈良の興福寺などで学んだのち東北に仏教を広めた徳一によって大同元年(806)に創建された寺院で、最盛期には100の堂塔が建ち並び、仏教を学ぶ僧は300人、僧兵は数千人を数えたといわれている。
12年前に再建された金堂は優美な屋根のシルエットが奈良の古刹を思い起こさせるが、磐梯山の麓の豊かな自然に囲まれた遺跡は静寂に包まれていて、そんな繁栄の歴史があったとはにわかに信じられない。しかし、それが事実であったことは、中世の慧日寺を描いた絵図(絹本著色恵日寺絵図)や、いたるところに残っている平安時代の仏像などから知ることができる。たとえば湯川村の勝常寺の薬師三尊像(国宝)や法用寺の木造金剛力士立像などは、平安時代の会津に洗練された仏教文化があったことを確かに示している。
ちなみに法用寺は、養老4年(720)に創建されたと伝えられる会津でも最古級の寺院で、徳一によって再建されたといわれている。木造金剛力士立像は都の作風を取り入れた品格ある像となっており、会津に現存する最古の三重塔も大変に美しい。また、勝常寺にある木造十一面観音立像は体躯に比して頭部がやや小さく、穏やかながらも端厳な相を擁しており、近現代まで観音堂の本尊であったのも納得できる素晴らしい作品である。
このように、すでに平安時代には多くの寺院が建てられていたことから、会津は仏都とも呼ばれている。もちろん、これは単純にお寺が多かったというだけではない。寺院を維持するための職人・技術者や僧たちの食を手配する人たちも、会津に集まっていたということである。そして、そのような人々を介して仏教の教えや最新の技術などが会津の人々へ広まっていったのである。
こうした会津の仏教文化は源平合戦や戦国の兵火で一時衰退したが、会津藩の基礎を固めた初代藩主・保科正之によって復興された。霊験あらたかでありながらもおおらかな信仰として、農家の女性が作業の合間に楽しみにしていた会津三十三観音巡りも彼によって定められたといわれる。
会津各地に遺る古刹・名刹に出会う