増員に応じて改編された組織の編成
新選組、その知られざる組織の実態 第5回
組織改編ごとに近藤・土方が実権を握る
箱館戦争が終結するまで、新選組は隊士の増員にともなって、何度も職制や組織表を変更した。
最初に編成された組織表では、「局長」に芹沢鴨と近藤勇が就任していた。ただ2人は同格というわけではなく、芹沢は巨魁局長と称されていたようで、近藤よりも上位に位置していたようである。
局長の下には、局長を補佐する「副長」がいた。土方、山南、新見錦が務めた。彼らが隊内の実質の権限を持っていたといわれる。その下には副長の補佐をする「副長助勤」、その下に「平同士(平隊士)」が30名いた。また探索活動や新選組内部の取り締まりを行う「諸士調役兼監察」や「勘定方(会計)」もいた。
文久3年(1863)9月、芹沢一派が粛清されると、近藤一派が組織を牛耳ることになった。3月の壬生浪士組結成から半年後のことだった。翌元治元年(1864)6月の組織表では、山南が総長という名誉職になり、副長は土方が1人で務めた。こうして近藤と土方が隊の実権を握ったようだ。
また新選組は同年10月や慶応元年(1865)に隊士募集を行い、隊士数が変動するたびに組織を作り替えた。「副長助勤」は一番隊から十番隊を率いる10人の「組長」とし、さらなる増強を図った。
箱館戦争が終結するまで、新選組は隊士の増員にともなって、何度も職制や組織表を変更した。
最初に編成された組織表では、「局長」に芹沢鴨と近藤勇が就任していた。ただ2人は同格というわけではなく、芹沢は巨魁局長と称されていたようで、近藤よりも上位に位置していたようである。
局長の下には、局長を補佐する「副長」がいた。土方、山南、新見錦が務めた。彼らが隊内の実質の権限を持っていたといわれる。その下には副長の補佐をする「副長助勤」、その下に「平同士(平隊士)」が30名いた。また探索活動や新選組内部の取り締まりを行う「諸士調役兼監察」や「勘定方(会計)」もいた。
文久3年(1863)9月、芹沢一派が粛清されると、近藤一派が組織を牛耳ることになった。3月の壬生浪士組結成から半年後のことだった。翌元治元年(1864)6月の組織表では、山南が総長という名誉職になり、副長は土方が1人で務めた。こうして近藤と土方が隊の実権を握ったようだ。
また新選組は同年10月や慶応元年(1865)に隊士募集を行い、隊士数が変動するたびに組織を作り替えた。「副長助勤」は一番隊から十番隊を率いる10人の「組長」とし、さらなる増強を図った。