「人間五十年」は諦めではない。限りある生命に執着した信長②
覇王・織田信長の死生観 第3回
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る!
では、信長の戦いぶりから、彼がどのような死生観を持っていたかを探ってみよう。
まず例として挙げられるのは、桶狭間の戦いの時。つまり、冒頭に書いた「人間五十年…」の場面の続きである。
今川軍の前衛部隊と対峙した信長は、味方の将士に向かって次のように言う。「小軍にして大軍を怖るることなかれ。運は天にあり」
この後、信長馬廻の一隊は敵の前衛を押し戻し、天候の急変に乗じて今川本陣へと攻めかかる。信長自身が槍を取り、「すは、かかれかかれ」
と叫んで突進したという。まさに生命を天運に委ねた姿である。
これとよく似た姿は、6年前の村木砦攻めの時、さらに4年前の稲生の戦いの時にも見られる。
村木砦攻めの時、信長は船頭が止めるほどの暴風だったのに、強引に船を出させて水野信元の救援に駆けつけた。稲生では、先頭に立って敵兵を怯えさせ、手ずから敵将の首を取った。彼には、命を賭けて進むこと以外のことは考えつかなかったのである。
一方では、まったく別の信長の姿も見られる。元亀元年(1570)の越前遠征の時の信長である。
越前敦賀郡の城を次々と落とし、いざ朝倉氏本拠地へ攻め込もうとした矢先、信長は浅井長政離反の注進に接する。金ヶ崎から信長は、命からがら京都へと逃げ帰る。味方の兵ほとんどを置き去りにした退陣だった。
生命を捨てた突進と生命への執着。一見矛盾しているかに思われるが、どちらも信長の死生観のもとでの行動である。信長の死生観とは、噛み砕いて言うと次の通りであろう。
生きられるならば、あくまでも生き抜く。だが、生きるためには常に生命の危険をくぐらねばならない。その時は、運を天に任せるしかない。
ひと言で表わすならば、「限られた人生を思い切り生き抜く」ということに尽きるだろう。
では、信長の戦いぶりから、彼がどのような死生観を持っていたかを探ってみよう。
まず例として挙げられるのは、桶狭間の戦いの時。つまり、冒頭に書いた「人間五十年…」の場面の続きである。
今川軍の前衛部隊と対峙した信長は、味方の将士に向かって次のように言う。「小軍にして大軍を怖るることなかれ。運は天にあり」
この後、信長馬廻の一隊は敵の前衛を押し戻し、天候の急変に乗じて今川本陣へと攻めかかる。信長自身が槍を取り、「すは、かかれかかれ」
と叫んで突進したという。まさに生命を天運に委ねた姿である。
これとよく似た姿は、6年前の村木砦攻めの時、さらに4年前の稲生の戦いの時にも見られる。
村木砦攻めの時、信長は船頭が止めるほどの暴風だったのに、強引に船を出させて水野信元の救援に駆けつけた。稲生では、先頭に立って敵兵を怯えさせ、手ずから敵将の首を取った。彼には、命を賭けて進むこと以外のことは考えつかなかったのである。
一方では、まったく別の信長の姿も見られる。元亀元年(1570)の越前遠征の時の信長である。
越前敦賀郡の城を次々と落とし、いざ朝倉氏本拠地へ攻め込もうとした矢先、信長は浅井長政離反の注進に接する。金ヶ崎から信長は、命からがら京都へと逃げ帰る。味方の兵ほとんどを置き去りにした退陣だった。
生命を捨てた突進と生命への執着。一見矛盾しているかに思われるが、どちらも信長の死生観のもとでの行動である。信長の死生観とは、噛み砕いて言うと次の通りであろう。
生きられるならば、あくまでも生き抜く。だが、生きるためには常に生命の危険をくぐらねばならない。その時は、運を天に任せるしかない。
ひと言で表わすならば、「限られた人生を思い切り生き抜く」ということに尽きるだろう。
<次稿に続く>