日清戦争の分岐点「鴨緑江・旅順口の戦い」はどのようにして始まったか
「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」 日清戦争を終わらせた 2大決戦の勝因の真相 第1回
日清戦争を終わらせた2大決戦「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」の真相に、連載形式で迫る。
明治27年(1894)9月25日、第1軍司令官の山県有朋大将は、日本軍が占領している平壌に入城した。
清国軍は国境線の鴨緑江(おうりょくこう)方面へ敗走したが、途中、朝鮮人集落を襲って狼藉を働き、食糧などを略奪した。日本軍は朝鮮人に賃金を支払って糧秣(糧食や軍馬の飼料)の運搬にあたらせたが、海上輸送の遅れや人夫の不足、悪路などのために思うようにはかどらなかった。
清国軍は10月中旬までに鴨緑江右岸に約3万5千人が集結、火砲約90門を備えた。右翼(下流)には総指揮官の宗慶提督率いる約1万8千人が九連城(くれんじょう)を中心に大小50ほどの堅固な陣地を構築。九連城の北側、河沿いにある虎山(こざん)は前進陣地として防備を固めた。さらに左翼(上流)の安平河口には依克唐阿(イクタンガ)将軍率いる約5千5百人が布陣。ただし、全軍のうち約1万人は戦傷者を含む敗残兵のため、将兵の士気は落ちていた。
先遣隊の立見尚文(たつみ なおふみ)少将率いる旅団は10月中旬、左岸(朝鮮側)の義州を占領。24日までに桂太郎中将率いる第3師団、野津道貫(のづ みちつら)中将率いる第5軍の諸部隊は河畔に集結した。工兵は軍事架橋用の鉄舟を並べ、渡河に備えた。
同日のうちに第5師団の佐藤支隊(指揮官・佐藤正大佐)は水口鎭から渡河を敢行。砲撃や射撃をものともせずに対岸に上陸すると安平河口の高地を占領した。工兵による架橋は寒さのためにてまどったが、25日早朝までに完成。本隊が陸続と渡河した。第3師団の架橋は遅れたことから将兵は船に分乗、闇にまぎれて渡河し、虎山陣地の手前に布陣した。
◎次回は4月12日(水)に配信予定です。