勇猛果敢な旅順攻略で一気に評価を上げた乃木希典 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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勇猛果敢な旅順攻略で一気に評価を上げた乃木希典

「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」 日清戦争を終わらせた 2大決戦の勝因の真相 第4回

日清戦争を終わらせた2大決戦「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」の真相に、連載形式で迫る。 

旅順攻略 方家屯の攻撃

攻略に半年を要するといわれた清軍の旅順要塞も
集中砲火と奇襲攻撃で占領

前回はこちら:難攻不落の旅順要塞をどう攻略するか?

 明治27年(1894)11月6日午前6時、第1軍が総攻撃を開始。乃木希典少将の旅団は先陣を切り、あえて防備の厚い東門へ攻撃をしかけた。双方の砲撃が続くなか、爆破専門の工兵が城門に忍び寄り、爆破した。城門が破られると清国軍の将兵は我先にと逃げだし、昼前には白旗があがった。
 この攻城戦で勇猛果敢な乃木の評価が一気に高まった。山地師団長は乃木に大連湾の砲台を落とすように命じた。乃木旅団が大連湾に進軍すると、砲台はあったものの清国兵の姿はない。辺りには寒村しかなく、地元の中国人は川の名にちなんで青泥窪と呼んでいた。

 いよいよ旅順攻略戦である。旅順要塞は清国が「10万の軍隊に攻められても半年は持ちこたえる」と豪語するほど堅牢な要塞だった。海と山に向けてそれぞれ半永久砲台、補助砲台がいくつも据えられ、直射撃のカノン砲、山砲など百門ほどが睨みをきかせている。守備隊は約1万2千人。対する第2軍は1万5千人だが、要塞攻略には敵軍を大きく上回る兵力が必要だと言われている。日本軍の苦戦は必至とみられた。
 しかし、実際には守備隊の約9千人は新徴募兵であり、残りの3千人ほどは敗残兵だった。

 散発的な戦闘のあと、第2軍は11月21日早朝から旅順への総攻撃に踏みきった。主力は第1師団の第2旅団と第6師団の混成第12旅団である。乃木率いる第1旅団は第15連隊の主力が錦州城の警備にあたっていたため、第1連隊と第15連隊第3大隊が参加した。
 砲兵隊は案子山の砲台へ集中攻撃を加えた。敵の砲台も激しく応戦したが、歩兵が突撃して占領した。難攻不落とみられていた椅子山、松樹山、二龍山、東鶏冠山の砲台も日本軍の集中砲火、突撃という攻撃にあっけなく落ちた。

 総攻撃の最中、錦州が攻撃を受けているとの報が入った。李鴻章から命を受けた宗慶の軍が南下し、手薄な日本軍守備隊(乃木旅団の一部)を急襲したのである。しかも旅順から敗走した将兵は錦州をめざした。乃木は態勢を整え、翌22日、救援へ向かった。
 旅順はその日に陥落。東洋一と謳われた要塞を攻略したことで、列強は日本軍の強さは本物であると認識、同時に警戒心を強める。
 乃木旅団は24日、孤軍奮闘していた錦州の守備隊と合流、清国軍を蹴散らした。
 一方、満州に進出した第1軍は山県有朋司令官の独断専行で12月12日、海城を占領した。だが、この作戦に反対していた大本営は山県を本国へ召還した。

◎次回は5月3日(水)に配信予定です。

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松田 十刻

まつだ じゅっこく

1955年、岩手県生まれ。立教大学文学部卒業。盛岡タイムス、岩手日日新聞記者、「地方公論」編集人を経て執筆活動に入る。著書に「紫電改よ、永遠なれ」(新人物文庫)、「山口多聞」(光人社)、「撃墜王坂井三郎」(PHP文庫)など。


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