農民が合戦に参加するのは非常事態?
ニャンと室町時代に行ってみた 第 2 回
戦国時代の兵士の9割は農民……ってホント!?
合戦には侵入した敵を迎え撃つ場合と、敵の領内に侵攻する場合の二つがありますが、いずれも領内の武士に出陣の命令が下される「陣触れ」で始まります。城下に住む家臣に対しては、あらかじめ決められた音やリズムで太鼓や鐘を鳴らして知らせ、遠距離に住む家臣には早馬を飛ばして伝えました。北条氏の場合は、まず本拠地の小田原から支配下の各郡や支城に出陣命令が伝えられ、各郡に置かれた「触口」という役職者によって村々に伝えられました。
家臣たちは所領の大きさに応じて、合戦の際に動員する兵士や武具の数などの「軍役」が定められていていました。陣触れを受けた家臣たちは、すぐに合戦の支度をし、軍役で定められた兵士や武具を揃えて主君の下に馳せ参じます。これを「着到」と呼び、兵士の数や軍備がそろっているかは、軍奉行によって厳しくチェックされました。
兵士の軍装に厳しい注文が付けられることもありました。永禄4年(1561年)頃、北条氏が上杉謙信の侵攻に備えて出した命令書には、甲をつけないで頭を包むだけの武者は見苦しいから、皮笠だけでもつけるようにというお達しが添えられていました。また、敵に侮られないよう武者らしく振る舞うことも求められました。北条氏が豊臣秀吉との決戦を意識し始めた天正15年(1587年)、非常事態の際は身分を選ばず兵を徴発するよう村々に命じ、「腰さし類のひらひら、武者めくように支度致すべき」という注意事項を添えました。腰に刀のようなものを差して武士らしく見えるよう支度せよというのです。北条氏の切羽詰まった心情が察せられ、悲哀を感じずにはいられません。
では、戦場にはどのような人々が動員されたのでしょうか。よく戦国時代の兵士の9割は農民であるなどといわれ、一般の農民もしばしば戦場に駆り出されたようなイメージがあります。しかし、農村の住民のうち大名の合戦に動員されるのは、必要に応じて戦闘に参加する非常勤の侍(「在郷被官」と呼ばれます)で、一般農民は主に後方支援のための「陣夫」として動員され、土木工事や兵糧の運搬などの夫役を課されました。確かに、戦意のない人々を無理やり兵士に仕立て上げても、強い軍隊にはなりませんよね。職人も城普請の工夫として動員されることはありましたが、兵士として徴発されることはありませんでした。武士と家臣の関係は、所領を保証する代わりに軍役で応える「御恩と奉公」の関係が基本ですが、所領を与えられない庶民には、軍役を務める義務もなかったのです。前述の北条氏の動員において、「武者めくような支度」を命じられた対象も、あくまで戦闘員である在郷被官で、もし一般の農民を出した場合、その郷の代官を斬首するという厳しい規定まで添えられていました。
また、甲斐の武田氏は長篠の戦いで大敗した後、軍事態勢の立て直しのため村々から「武勇の輩」を集めようと試みますが、村方では人数さえ合わせさればよいと考え、金で雇われた人夫ばかりが動員に応じたといいます。信濃の木曾義昌も危機に際して農兵を徴発しましたが、米の支給や年貢免除、士分への取り立てなど莫大な報酬を用意しなければなりませんでした。軍役のない農民を戦場に駆り出すには、それなりの役得を与えなければならなかったのです。
その一方、農閑期を利用して、すすんで戦争に参加する農民もいました。戦場での略奪を目的に傭兵になった人々で、食糧や家財を奪うだけでなく、人間を生け捕りにして奴隷にしたり、人身売買の対象にしたりすることもありました。期間雇用の傭兵たちにとって戦場は荒稼ぎの場であり、飢饉の折は特にその傾向が強くなったといわれています。侵略を受ける人々にとってはたまったものではありませんが、飢えから逃れるために自ら戦場に身を投じる民衆がいたという事実も、戦国時代の過酷な一面を表しています。
<『おかしな猫がご案内 ニャンと室町時代に行ってみた』コラムより>