足助への塩の道に敷かれたレール・名鉄三河線【前編】
ぶらり大人の廃線旅 第15回
愛知県の岡崎を流れる矢作(やはぎ)川、その支流の巴(ともえ)川を遡った山峡に足助(あすけ)の町がある。今では豊田市域に属するが、昔ながらの家並みは平成23年(2011)に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。この町は名古屋から信州伊那谷へ通じる飯田街道の要衝で、かつて三河湾沿岸で作られた塩を信州へ運ぶ「塩の道」のルートにもあたった。製塩地は大浜、棚尾(現碧南市)、成岩(ならわ・半田市)、生田(西尾市)などで、これに加えて瀬戸内などの西国塩を併せて矢作川を船で運び、この足助で陸揚げした。馬に積み替えるために包装を整えることから、ここに多くの塩問屋が置かれて繁盛した町である。
製塩地の三河湾から東海道の宿場町である知立、現在では豊田市となった挙母(ころも)まで、名鉄三河線の前身である三河鉄道は明治44年(1911)に鉄道敷設免許を得たが、その後は現終点の猿投まで大正3年(1914)、西中金(にしなかがね)を経て塩問屋の町・足助までを同10年に免許を獲得している。その後は大正3年から順次開業して同13年に猿投まで、昭和3年(1928)には西中金まで延伸開業した。
その先の足助までも引き続き工事が進められたが、昭和4年(1929)の世界恐慌が経営の足を引っ張り、竣工期限を少しずつ延長しながら大半の路盤ができた時には太平洋戦争が始まり、敷設されるはずだったレールが戦地に送られるという時代の不運に阻まれ、結局は西中金~足助間7.3キロの区間が開業することはなかった。心ならずも終点となった西中金駅は国道沿いの小集落の西端に位置し、足助方面行きバスの乗り継ぎ地となったが、トヨタのお膝元で自動車王国の愛知県ゆえ、特に猿投以東の乗客減少は大きく、レールバスの投入で経費節減を図ったが平成16年(2004)に猿投~西中金間は廃止されている
未完の「塩の電車道」をゆく
私は毎月名古屋へ行っている。栄中日文化センターの講師を引き受けているためだが、昼過ぎの講座なので、その前後に廃線歩きの時間をとるのは難しい。そこで前日に別の講演で名古屋に泊まった翌朝に歩くことにした。宿を出たのは6時過ぎである。
知立、豊田市を経由して現地へ向かった。ちょうど通学時間帯で、高校生たちで混雑する猿投駅を後に、さっそく廃線沿いの道をたどった。駅のすぐ北側の踏切は車庫からの出入りのため電車がたまに通るらしく現役で、レールが途切れるのはその少し先だ。しかしその先には錆びたレールが撤去されずに残っており、そのまま続いている。猿投という珍しい地名は北方に聳える猿投山(629メートル)にちなむもので、「景行天皇が伊勢へ行幸の際、連れていた猿を、悪戯がひどいので海に捨て、その後この猿がこの山に隠れ住んだ」という、字に付会した説もあるが、本当のところはわからない。その猿投山を北に遠望しつつ住宅地の中をたどる。
特に雑草に阻まれることもなく順調に線路を歩くと、バス通りを越えたところで三河御船(みかわみふね)駅跡に着いた。駅名標は枠が残るのみだったが、ホームの屋根はまだ撤去されていない。地方の駅には桜が植えられることが多いが、ここにも数本の桜。列車の来ないホームも4月に入れば絶好のお花見場所になりそうだ。さらに森の中の線路を歩けば、ほどなく築堤を左へ降りて行く階段があった。まだ設置されて新しい。
築堤の下には「御舟石(おふないし)」が鎮座していた。御船(みふね)の地名と関係ありそうだが、傍らの説明板によれば、「ある年洪水があり、猿投の神が御舟に乗って、御船川を下られた折、2柱は猿投山上にとどまり、1柱はこの地に来られた。この石は神の召された舟であるという」とある。しかし昭和2年(1927)にこの三河鉄道が建設される際に「石が埋められそうになったためか、作業員が負傷するなど事故が多発したため」原位置に保存して碑を建立したのだという。御舟石はざっと2畳敷きほどの平たい石で、線路寄りに「御舟石」の石碑が建てられ、注連縄が張られていた。
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