日本人は「自立しない」という道を選んだ【適菜 収】
エーリヒ・フロム『自由からの逃走』を読む
◾️ 戦場はここにある
安倍の発言をまとめると「立法府の長」たる総理大臣(私)の説明が正しい理由は私が総理大臣であるからであり、総理大臣は森羅万象を担当しているとのこと。ちなみに総理大臣は「行政府の長」である。こうした究極のバカが暴走するようになったのも、近代化と関係がある。資本主義は人間を伝統的な束縛から解放し、自由な存在にした。
《個人の努力によって、成功することも経済的に独立することも可能になった。金が人間を平等にし、家柄や階級よりも強力なものとなった》(前掲書)
そして個人は孤立した。共同体はすでに破壊されているので、復古は意味を持たない。大衆は疑似共同体、自分を縛り付けてくれる権力を探し求めるようになる。
その上で、フロムはナチズムを分析する。ナチズムには、内容と呼べるようなものは何もなかったが、ナチが何であるかを知らないまま、ただ力があるという理由だけで大衆は支持した。
《ヒットラーが権力を握ってからは、さらにもう一つの誘因が力をえて、大多数のものがナチ政府にたいして忠誠を捧げるにいたった。幾百万のひとびとにとって、ヒットラーの政府は「ドイツ」と同一のものになった。ひとたびヒットラーが政府の権力を握った以上、かれに戦いを挑むことはドイツ人の共同体からみずからを閉めだすことを意味した。他の諸政党が廃止され、ナチ党が(ドイツと)同一のもので「ある」とき、ナチ党にたいする反対はドイツにたいする反対を意味した》(前掲書)
情弱のネトウヨが政権批判をする人物を「左翼」「反日」と決めつけるのも同じような現象だろう。こうして彼らは自己欺瞞を続け、《興奮を約束し、個人の生活に意味と秩序とを確実に与えると思われる政治的機構やシンボル》に引き寄せられていく。こうした状況に抵抗しても無駄という「大人の態度」は、ファシズムの土壌である。
ジョン・デューイの名言を孫引きしておく。
《われわれのデモクラシーにたいする容易ならぬ脅威は、外国に全体主義国家が存在するということではない。外的な権威や規律や統一、また外国の指導者への依存などが勝ちをしめた諸条件が、まさにわれわれ自身の態度のなかにも、われわれ自身の制度の中にも存在するということである。したがって戦場はここに――われわれ自身とわれわれの制度の中に存在している》(前掲書)
(『国賊論~安倍晋三と仲間たち』本文に一部加筆して引用)