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杉田玄白もお手上げ!? ~江戸時代に大流行した梅毒~

江戸時代の感染症 ~其の2・梅毒~

■官兵衛、清正、利長も梅毒!

名城公園(愛知県名古屋市)にある加藤清正像

 梅毒はそもそも西インド諸島の風土病だったものがアメリカ大陸を発見したコロンブス一行により、まずヨーロッパへ持ち込まれたと推定されています。
しかも感染経緯が「それ」ですから、世界中へ広まるのは簡単なことでした。

 日本皮膚科学会のホームページによると、日本へは室町時代後期の1512年頃、海賊の倭寇が遊女たちと遊んで感染させてしまったのが始まりだろうとされています。その後、江戸時代になってすぐ街道や宿場などを整備したため人馬の往来が激しくなり、遊女と遊んだ亭主が家でおかみさんへ→おかみさんは亭主のいぬ間につまみ食いなどで浮気相手へ→その男性陣が遊郭や岡場所、夜鷹などで遊女や娼婦たちへ……あぁ……ザ・梅毒メビウスの輪!

 こうしてあっというまに日本全国へ蔓延したのではないでしょうか。
その患者の大量さたるや、杉田玄白の『形影夜話(1810年)』には『梅毒ほど世に多く、しかも難治にして人の苦悩するものなし』と嘆息せしめ、『毎歳(当時はこの字も使う)千人余も療治するに、七八百は梅毒家なり』と表現されています。7~8割が全員同じ病って、現代なら大問題になるはずですよね!

 杉田玄白は解体新書のメンバーのリーダー的存在で、小浜藩医にして江戸でも開業医をしている、当代の名医の1人でした。当時の梅毒の治療薬としては「山帰来(さんきらい)」なる漢方薬が使われていました。これはユリ科のサルトリイバラの塊茎を使ったもので、室町時代に誕生し、なんと現在も売っています!!

 『和漢三才図絵』(1712年)によれば「梅毒の重い者は山に捨てられる風習があったが、土茯苓(どぶくりょう=サルトリイバラ科の植物)を服し、治って帰ってきたことから“山帰来”と名付けた」そうで、室町時代には梅毒の治療に使っていた、とあります。

 その後、中国から「水銀療法」が伝わると、むしろ、その水銀中毒を予防・緩和するためとして使われるようになりました。現在ではこの土茯苓に「抗癌作用がある」ことがわかり、更なる研究が期待されています。

 さて最後に、梅毒にかかった歴史上の人物を列記して終わりにしたいと思います。

 それぞれ詳細は省きますが、秀吉の軍師・黒田官兵衛(黒田考高)、家康の次男・結城秀康、加藤清正、浅野幸長、前田利家の長男・前田利長などなど。結構いますね! また、日本人ではありませんが、非常に有名な作曲家では、ドイツ・ロマン派を代表するシューマンや、チェコ国民楽派を代表するスメタナも罹患しました。

 シューマンは「子供の情景」「トロイメライ」「アラベスク」「謝肉祭」「幻想小曲集」などで有名ですが、彼は梅毒からくる精神疾患&肺炎により、1856年に46歳で死去しています。

 スメタナはオーストリア・ハンガリー帝国治下のチェコで生まれ、チェコでは「チェコ音楽の祖」とされています。6つの交響詩から成る「わが祖国」、特にその中の第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」がとても有名で、「スメタナといえばモルダウ、モルダウといえばスメタナ」というぐらい、彼の代表曲となっています。しかし最後は梅毒が原因で1884年に60歳で死去しました。

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瀧島 有

たきしま あり

江戸文化歴史研究家

江戸文化歴史研究家。学校や教科書が教えない、江戸の町の武家・庶民の真実の姿、風俗や文化、食べ物などを研究する傍ら、江戸文化勉強会「平成江戸幕府」を主宰。フェリス女学院大学、内閣府クールジャパン・アドバイザリーボード・メンバーなどを経て、法政大学文学部史学科に在学中。著書に『あり先生の名門中学入試問題から読み解く江戸時代』など。


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