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堺の墓③小西行長を想う

季節と時節でつづる戦国おりおり第425回

 ようやく自粛が解除されたところで、堺市内でも少し距離がある場所を訪問しましょう。無論、まだまだ油断できないので車で移動、マスク装着。これ大切。

 目的地へは泉北2号線をほぼ石津川に沿って上流に向かう形です。自粛明けとはいえ結構交通量が多いですね。

 公共交通機関利用の場合は、泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅から南海バスで鉢塚バス停下車、来た道を少しだけ戻ると、堺公園墓地(鉢ヶ峯霊園のD区画があります。その通路沿いすぐ見えるところに、小西行長供養塔はありました。

  

 この宝篋印塔形式の供養塔、元々は堺区内の松屋町(まつやちょう)外山公園(とやまこうえん)にあったもので、明和4年(1767)江戸時代中期に小西一族の子孫という吉岡貞於さんが建立したもので、右側の墓石は当の貞於さんとその妻子のもの。左側の墓石も一族のものということです、

 昭和36年(1961)の大和川改修工事の際に現在の場所に移されました。

 元々行長は堺の富商・小西隆佐の次男として京の小西家拠点にて生まれたらしく、フロイス『日本史』も「都生まれ」と紹介しています。貞享1年(1684)成立の地誌『堺鑑』では「薬屋」、元禄13年(1700)成立の『宇土軍記』には「堺の木薬屋」と記されていて(「木薬」は「生薬(きぐすり)」か。薬草や薬木を扱う)ですから、一貫して彼が薬屋と認識されていたことがわかります。

 実際、堺などの小西一族は薬種商として栄え、現在のコニカミノルタ、ボンドのコニシなどもその系統に連なっています。

 もっとも、行長当時の薬種商は弾薬・加薬も扱う「死の商人」だった筈で、武将に転身したのも特別なことではありませんでした。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、捕らえられて堺から京へと引き回され、六条河原で斬首され、三条大橋にさらされました。数万人が見物に集まったと『時慶卿記』にあります。

 彼はキリスト教徒でしたが、禁教下の江戸時代中期ということで供養塔が日本式なのはやむを得ないところです。

  

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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