堺の墓⑤名医・半井家墓所
季節と時節でつづる戦国おりおり第427回
話を堺公園墓地に戻しましょう。今回、もうひとつ目的の場所があります。それが半井家(なからいけ)墓所。
通路から少し登った削平地です。
これは半井家三名の合同墓で、左に刻まれた「海心宗沫居士」の戒名は、半井宗沫という人物のものです。宗沫は牡丹花肖柏の子で、半井家へ婿入りしました。医者としての名声は京に鳴り響き、のち堺で開業。ある日、「息子の盗み癖を治す薬を」と請う老女に彼は薬を処方したが、門人たちが問うと「あれは〝燥肺〟の薬だ」と答えた。燥肺は肺を乾燥させるという意味で、空咳やくしゃみを誘発する。宗沫は「どこに忍び込んでも、咳やくしゃみですぐバレるだろう」と考えたのだ(『半井家系図』)、という逸話が遺ります。医術だけでなく頓知にもすぐれていたようですね。さすが頓知の曽呂利新左衛門を生んだ堺。天正14年(1586)11月9日没、墓石は元々熊野町(ゆやちょう。現在の堺区内)の熊野小学校の敷地の大部分を占めた大通庵というお寺にありましたが、明治1年(1868)庵が廃絶した後、昭和26年(1951)堺公園墓地に移されたのです。
この宗沫の義兄弟の瑞策は正親町天皇から中国の文献を参考にして編まれた日本最古の医書『医心方』30巻を賜るほどの名医で、織田信長・豊臣秀吉からも信任され晩年堺に隠棲し天正5年(1577)8月25日に没しています。