「地理と地形」で推理すれば、王朝交替説は、否定できる!?
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑥
聖帝と讃えられた仁徳天皇
河内王朝の始祖は、仁徳天皇で、応神天皇と同一人物だというのが、もっとも有力な説だ。
応神天皇は始祖王にふさわしい。たとえば神功皇后のお腹の中に守られて朝鮮半島からやってきたと『日本書紀』はいい「胎中(たいちゅう)天皇」と特別に呼んでいること、天孫降臨神話の中で、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつのひこひこほのににぎのみこと)が胞衣(えな)にくるまれて舞い下りている姿に酷似していると指摘されている。
第15代応神天皇の時代に王朝交替が起きていた証拠のひとつに、天皇の名の変遷が挙げられている。
第10代崇神から第19代允恭にいたる歴代天皇の和風諡号(しごう)を並べると、次のようになる。
(第10代)ミマキイリヒコイニエ
(第11代)イクメイリヒコイサチ
(第12代)オオタラシヒコオシロワケ
(第13代)ワカタラシヒコ
(第14代)タラシナカツヒコ
(第15代)ホムダワケ
(第16代)オオサザキ
(第17代)オオエノイザホワケ
(第18代)タジヒノミズハワケ
(第19代)オアサツマワクゴノスクネ
このように、「イリ」が二代、「タラシ」が三代続いたあと、応神天皇以降は、異なる系統に分かれていく。「ワケ」の名が多いことから、河内王朝説をとる人たちは、これを「ワケ系」とみなし、それ以前と系譜の断絶があったのではないか、と推理するのである。
また、仁徳天皇が「とても良い人だった」ことも、大きな意味を持っているという。『日本書紀』に次の記事が載る。
仁徳四年春二月、天皇は群臣に詔して次のように述べられた。
「朕は高台に登って遠くを見やったが、煙が国の中に立っていない。思うに、百姓(おおみたから)たちは貧しく、家に飯を炊く人もいないのではないか。朕は次のように聞いている。昔の西欧の時代には、人々は王の徳を褒め称え、家々には安らかな歌があったというではないか。朕がこの国を治めてすでに三年になるが、褒め称える者もいないし、家々の煙はすくなくなった。すなわち、五穀は実らず、百姓たちは困窮しているのだろう。地方では、さらに状況は悪いに違いない」
そして三月、三年間課役を免除することを決めたのだった。
仁徳七年夏四月、天皇が高台に登ると、家々から煙が立っていた。それをみて、天皇は皇后に、「朕は富を得た。これで憂えることもない」と語りかけた。しかし皇后は、いぶかしんだ。宮垣が壊れ、修理することもままならず、宮も朽ち果て、衣服や夜具も、雨で濡れてしまったからだ。すると天皇は、次のように述べられた。
「天が君を立てるのは、民のためだ。昔の聖王は、民ひとりが飢え、凍えていても、我が身を責めたものだ。今、民が貧しいのなら、朕も貧しい。民が豊かなら、それで朕も豊かなのである」
そして、三年が過ぎても、課役は免除されたままだった。
仁徳十年冬十月、課役を再開し、宮を造ることになった。すると民は、促されるまでもなく、老いたるものを助け、幼いものを連れて、昼夜を問わず手伝い、競い合って励んだ。だから、あっという間に宮は完成した。そのため、今、聖帝と讃えるのだ……。
これだけ称えられるのは、王朝交替があったからだと王朝交替論者は考えるのである。
しかし、「地理と地形」で推理すれば、王朝交替説は、即座に否定できる。王家が入れ替わったのに、わざわざ河内に都を造る必要がどこにあるのか、まったく見当がつかない。
(『地形で読み解く古代史』より構成)