加藤清正、藤堂高虎、黒田官兵衛…築城三大名人の極意とは?
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「名将たちは、独自の築城術を進化させることにより、自身の本拠や支城群を難攻不落の堅城に仕立てようとした。今日では、戦国時代に築かれた城を研究することにより、武田流、上杉流、北条流をはじめ、戦国大名ごとの築城術の存在が解明されつつある。
となれば、築城家と称すべき家臣が各戦国大名家には存在してしかるべきところ、具体的には信玄に仕えた山本勘助の名が伝えられるに過ぎない。ただし、築城の名手として勘助の存在を描写する『甲陽軍鑑』の内容を精査すると、戦国時代の実態からかけ離れた点も見受けられ、戦国の築城家の実態を知る上では逆にマイナスになっている。
戦国の名将たちは、築城の名手でもあった。彼らは、より堅固な城を築くため、軍師や築城家に頼ることなく、自身の知略を存分に活用した。城を築き、活用することは、戦国大名にとって浮沈を左右する重要なファクターであり、名将としての必須条件だったのである。
織田信長は、軍師や参謀のような存在を必要とせず、自身の知略によって天下布武を達成しようとした。また、岐阜城や安土城などの造営に際しては、トータルプロデューサーとして「織田流の城」を創成しようとした。
織田の天下を受け継いだ豊臣秀吉は、黒田官兵衛を軍師とし、築城については、その知略を最大限に活用した。また、加藤清正をはじめ、福島正則、加藤嘉明らを築城家として育成し、「豊臣流の城」を日本全国に拡散しようとした。」
「豊臣の天下を奪い取った徳川家康は、「徳川流の城」の築城統の括責任者として藤堂高虎を抜擢した。
戦国時代の中盤から後半にかけては、戦国大名自身が築城の名手でもあった。だが、戦国の乱世が終幕を迎えようとしていたころ、築城という新しい都市の創造とも密接に関連する一大プロジェクトには、トップ一人の才覚だけでは限界があった。そのため、築城の名手というプロジェクトリーダーを必要とした。
直線的な縄張りを好んだ官兵衛と高虎に対し、屈曲した縄張りを得意とした清正。彼らは、優れた知略を駆使し、それぞれの個性を生かしながら、難攻不落の堅城を仕立て上げることにより、新しい時代を築いたのである」
(歴史人5月号 「築城名人の極意を解き明かす!」より構成)