政権が大阪に移って失敗した例は大化改新!?
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑦
武力で征服した者は、武力で政権を転覆されることを恐れる
くどいようだが、なぜヤマトに都が置かれたかといえば、最大の理由は、西からやってくる敵をはね返す力があったからだ。もし三王朝交替論者がいうように、西から来た征服者が、ヤマトを倒したとして、あるいはヤマトを圧倒して屈服させたとしても、なぜヤマトの西側の大阪、河内に、都を置く必要があっただろう。
武力で征服した者は、武力で政権を転覆されることを恐れる。防衛力がなく、しかも、水害に悩まされ続ける河内に、なぜ好きこのんで住む必要があったのか。ヤマト黎明期のように、東側の勢力がふたたびヤマトに集まりはじめたら、手も足も出なくなるではないか。
ヤマトに攻め入ったのなら、河内には、戻るはずがない。ヤマトを占領し、少なくとも政権が安定するまでは、ヤマトに都を造るのが自然だ。
また、「ヤマトの東の勢力が恐ろしい」というのなら、もうひとつ策がある。それは最終章で語るが、河内という選択肢ではない。
政治を刷新しようと、大阪に遷都して、痛い目に遭ったという実例がある。それが、七世紀半ばの孝徳天皇だ。いわゆる乙巳(いっし)の変(654)ののちの大化改新(たいかのかいしん)(646)であり、この改革事業は苦い教訓を残して頓挫していたのだ。
そこで大化改新が大阪で失敗した事情を説明しておきたいが、その前に明らかにしておかなければならないことがある。
乙巳の変、大化改新が、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足による天皇家中興のクーデターと、改革事業と信じられてきたのは、『日本書紀』に書いてあることを、鵜吞みにしていたからだ。
しかし、『日本書紀』編纂時の権力者が中臣鎌足の子・藤原不比等なのだから、この文書が中臣鎌足の業績を顕彰するのは当然のことだった。だから、『日本書紀』の大化改新をめぐる記事は、慎重に読みなおす必要がある。いまだに誤解が解けていないから、古代史の多くの謎も解けないままなのだ。
『日本書紀』の記事を追ってみよう。蘇我本宗家(蘇我蝦夷や入鹿)が滅亡して皇極(こうぎょく)女帝は皇位を下りた。息子の中大兄皇子が即位すべきだったが、中臣鎌足は中大兄皇子に対し、「年功序列を考慮し、人々の期待している人を」と諫(いさ)ために、皇極の弟の軽(かる)皇子が即位した。これが、孝徳天皇だ。
ここで不思議なことが起きる。孝徳天皇は、蘇我氏や親蘇我派の人脈を重用しているのだ。そして、中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳朝でほとんど活躍をしていない。
もうひとつ問題は、孝徳朝の重臣が、次々と変死し、政権の屋台骨が崩れていく。しかも、悪さをしていたのは、中大兄皇子と中臣鎌足だった可能性が高い。
(『地形で読み解く古代史』より構成)