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まさに「忠勇義烈」 大阪夏の陣で散った豊臣秀頼の小姓・木村重成の墓を訪ねる

季節と時節でつづる戦国おりおり第286回

大坂夏の陣・八尾若江の戦いを歩く④

前回はこちら:大坂夏の陣・八尾若江の戦いを歩く③

 八尾方面の戦いの跡を廻った後は、高塚地蔵さんのあたりから東を見渡してみます。

 

 生駒山を中心とした生駒山地が迫り、当時は高い木の上などに登れば、山地の麓まで遮るものなく見通せたことでしょう。大坂夏の陣、幕府軍がこの平地を西に進んで来るさまはさぞや壮観だったと思われます。

 それでは続いて若江方面の戦いの関連史跡制覇にかかりましょう。こちらは絶世の美男子といわれた木村重成ゆかりの地めぐりです。高塚地蔵さんから府道21号線を1Kmあまりトコトコと北上。第二寝屋川にぶつかるところで東に進路を変えると…

 

 幸公園内にある木村重成の墓です。重成は公園の入り口に立てられた石柱には「ああ忠勇義烈 木村重成公」と刻まれていますが、古来「公」というのは大臣の位にある人への敬称、時代が下って江戸時代は自分の主君への敬称、近代には公爵への敬称、なので一般の人が「重成公」と呼ぶのはおかしいのですがそんな御託は要らんですかそうですか。

 重成の母は豊臣秀頼の乳母で、重成自身早くから秀頼の小姓として出仕した生粋の豊臣武将。慶長20年(1615)5月6日、若江で藤堂高虎勢右翼を撃破したあと井伊直孝勢と激突、壮烈な討死を遂げます。それから149年後、重成の首をとった安藤重勝の子孫が、供養のために経てたのがこの墓碑で、当初はさらに東寄りのところにあったものを第二寝屋川開削の関係でこの地に移したそうです。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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