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源氏vs平家の最終決戦! 清盛死後、平家はどのように滅亡の途をたどったのか

激突! 源平合戦の軌跡 第1回

全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。

壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

清盛死後、弱体化した平氏を
源氏は西へ追いつめていく

 治承5年(養和元年、1181)閏2月4日、六波羅入道こと平清盛が熱病に冒され、64歳をもって死去した。前年8月に挙兵した源頼朝ら、諸国の反平氏勢力との本格的な軍事対決に迫られているなかでの急死であった。清盛の遺言としては、「頼朝の首を墓前に供えよ」(『平家物語』)「ひたすら東国の平定につとめよ」(『吾妻鏡』)などが伝えられているが、この遺言が叶えられることはなかった。平氏一門は、その後、4年にわたる闘いの末、元暦2年(1185)3月、長門国壇ノ浦で滅び去ってしまうからである。

 清盛の遺言もあってか、死去の翌3月、平重衡が美濃・尾張の国境墨俣(岐阜県大垣市)で源行家軍を撃破している。しかし6月になると信濃国横田河原(長野県長野市)で平氏方の城氏が木曽義仲(源義仲)に大敗を喫し——翌年10月とする説もあるが誤り——、以後、義仲軍が、北陸道南西部へ勢力を伸ばしていくきっかけをつくることになった。
 翌養和2年(寿永元年)は、平氏による各地の反乱勢力に対する鎮圧活動に大きな進展は見られなかった。治承4年から2年間、畿内・西国に悲惨な被害をもたらした養和の大飢饉の影響である。

 寿永2年4月に至り、ついに平氏は脅威の高まる北陸道へ追討軍を派遣した。しかし加賀・越中国境の倶利伽羅峠、続く加賀篠原の戦いで木曽義仲の率いる北陸勢に敗れ、さらに逃げ戻った京都での防衛も断念するに至った。平氏一門の都落ちである。

 

 7月25日、安徳天皇と三種の神器をともない、西へ向かった平氏は旧都福原に立ち寄ったのち、九州大宰府へ着いたが、やがてそこも追われ、讃岐国屋島に本拠をかまえることになる。平氏にかわって義仲軍のほか諸国の反平氏勢力も入京してきたことから、軍勢であふれた都では、兵糧不足による掠奪行為が頻繁に起こるなど治安が悪化し、義仲に対する人々の非難が高まっていった。

 こうした風潮のもと、京都の後白河院と鎌倉の頼朝との間で義仲排除に向けて提携が進むなか、注目されるのは、院の命令で義仲が西国の平氏追討におもむいている10月、頼朝の東国における支配権が公的に承認されたことである。
 このため閏10月1日の備中水島の戦いで平氏に敗北後、急ぎ帰京した義仲は、11月19日、ついに後白河院の御所法住寺殿を襲撃して院を幽閉し、翌寿永3年(1184)1月11日には征夷大将軍(「征夷」ではなく「征東」説が有力)に任じられた。しかし後白河院の要請により、頼朝の派遣した源義経軍が宇治川方面、同範頼が近江の瀬田方面から都へ攻め寄せ、1月20日、義仲は近江の粟津(滋賀県大津市)の戦いで敗死した。

 以後、源平の争いは、一ノ谷の戦いから屋島の戦いをへて、平氏が滅亡する壇ノ浦の戦いまで続くが、この間、『平家物語』などでとくにクローズアップされているのが義経の活躍である。ただし近年、一ノ谷の戦いにおける義経の「鵯越えの坂落し」にしても別人説、屋島の戦いについても、長期戦を構想する頼朝の意図に反した義経の単独行動説などが有力視されている(詳細は次項より述べる)。また治承4年(1180)に始まった内乱が、平氏一門の滅亡(壇ノ浦の戦い)で終わったわけではないことにも留意しておく必要があろう。全国的・長期的内乱は、以後も頼朝・義経の不和をへて、文治5年(1189)の奥州合戦まで続くことになる。

◎次回は、5月4日(木)に更新予定です。

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樋口 州男

ひぐち くにお

1945年生まれ。山口県出身。日本史学者。現在、拓殖大学非常勤講師。日本中世の「歴史と伝承、絵巻・絵図」などを主に研究、執筆。著書に『中世の史実と伝承』(東京堂出版)、『日本中世の伝承世界』(校倉書房)、『武者の世の生と死』(新人物往来社)、共編著に『図説平清盛』、『図説平家物語』(ともに河出書房新社)、『再検証・史料が語る新事実・書き換えられる日本史』(小径社)、『木曾義仲のすべて』、『西行のすべて』(ともに新人物往来社)など多数。


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