地形と地理を無視すれば政権は倒れる――。古代史から見える法則
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑧
孝徳天皇の事業は、無残な結果になった理由
孝徳最晩年、中大兄皇子は「飛鳥遷都」を献策し、受け容れられないとみるや、役人や孝徳の皇后らを引き連れて、強引に飛鳥にもどってしまったのだった。いったいこれは、何を意味しているのだろう。
まず、中大兄皇子と中臣鎌足が正義の味方で、蘇我入鹿が大悪人という『日本書紀』の描いた勧善懲悪の世界から、脱していただきたい。また、蘇我氏全盛期に担ぎ上げられた皇極天皇は、反蘇我派とは考えにくいこと、親蘇我派の人脈を重用した孝徳天皇も、姉同様、親蘇我派であった可能性は高い。
そう考えると、『日本書紀』の記事を、根底から疑ってかかる必要がある。まず、「中大兄皇子と中臣鎌足の蘇我入鹿暗殺によって、蘇我政権は転覆した」という記述は、まったくのデタラメだろう。要人暗殺は起きていたろうが、蘇我政権は、継続していたのだ。
たとえば、孝徳天皇は難波(なにわ)遷都(せんと)を急いだが、このとき、老人たちは口々に、「そういえば、奈良のネズミが大阪方面に向かっていたのは、難波遷都の前兆だったのだ」と語り合ったという。
その、ネズミの大移動は、蘇我入鹿存命中の出来事で、この記事は、難波遷都が蘇我入鹿らの発案だったことを暗示している。律令整備の根幹となる都城の建設を目論んだのだろう。ここでは省略するが、律令整備最大の功労者・物部氏の地元に都を遷そうと考えたのかもしれない。
孝徳天皇は、蘇我入鹿の改革事業を継承したのだろう。しかし、タイミングが悪すぎた。蘇我氏が盤石だったころは、難波遷都は大いに有効だっただろう。しかし、蘇我本宗家が滅び、政権に不安材料が残る中で、難波遷都は急ぎすぎた嫌いがある。
律令制度は旧豪族から土地を奪わねばならない。土地と民を国家の物にして、農地を公平に民に貸し出し、旧豪族には役職と官位、サラリーを与える制度だ。一度豪族は裸にならねばならず、不満と不安が充満していただろう。そういう不安定な時期に、難波に都を遷そうとしたところが、まちがいだったのだ。
反動勢力が奈良盆地で反旗を翻し、政権に圧力をかけ、中大兄皇子や中臣鎌足がそれをけしかけ、孝徳天皇の晩年に、政権を転覆させることに成功したのだ。せめて、飛鳥にいて制度を変え、それから都を遷せば成就したかもしれない。
孝徳天皇の事業は、こうして「地形と地理を軽視した」ために、無残な結果となった。蘇我本宗家が奈良盆地をしっかり掌握していた時代なら、難波遷都も、成功しただろうが、蘇我本宗家が倒れたことで、箍(たが)がゆるみ、豪族たちの改革事業に対する反発が、噴出したのだろう。
(『地形で読み解く古代史』より構成)