治水工事に邁進した仁徳天皇
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑩
堀江は、河内湖にたまった水を、直接瀬戸内海に流すショートカット!
『日本書紀』仁徳11年夏4月条には、次の記事が載る。5世紀前半のことと思われる。
天皇は群臣に詔(みことのり)した。
「今、この国を見れば、野や沢が広く、田や畑は少なく乏しい。また、河川は蛇行し、流れは滞っている。少しでも長雨が降れば、海水は逆流し、里は船に乗ったように浮かびあがり、道はドロドロになる。だから群臣たちも、この状態を見て、水路を掘って水の流れを造り、逆流を防ぎ田や家を守れ」
仁徳天皇の宮は難波の高津宮で、河内平野の状態を天皇は嘆き、問題を解決しようというのだ。
同年冬10月、宮の北側の野原を掘り、南の水をひいて西の海に流した。それで、この川を「堀江」と呼んだ(難波の堀江。大阪市中央区)。
この堀江は、上町台地を東西に突っ切る大工事だった。河内湖にたまった水を、直接瀬戸内海に流すショートカットを造ったのだ。ちなみに難波の堀江は、大坂城(あるいは難波宮)のすぐ北に接する大川(旧淀川)となって現存する。
この結果、水害が激減したにちがいない。
そして、堀江とセットになって造られたのが、茨田(まむた)の堤だ。話は続いている。
北の川の洪水を防ぐために茨田堤(大阪府門真(かどま)市)を築いた。この時、2か所に土地の亀裂があって、築いてもすぐに壊れた。すると天皇の夢枕に神が現れ、次のように教えた。
「武蔵人強頸(むさしのひとこわくび)と河内人茨田連衫子(かわうちのひとまむたのむらじころものこ)を神に捧げ祀るなら、必ず塞ぐことができるだろう」
そこでふたりを捜し出し、水神を祀った。強頸は哀しみ、泣いて、水に沈んで死んでいった。こうして堤は完成した。ただ茨田連衫子は、ヒサゴ(瓢箪(ひょうたん))をふたつもって川に入った。ヒサゴを手に取り、水中に投げ入れ、請うていった。
「川の神は祟って私を幣(まい)(人身御供)としました。それでこうしてやってきました。必ず私を得ようというのでしたら、このヒサゴを沈めて、浮かばせないで下さい。すると私は、本当の神ということを知り、自ら水中に入ろうと思います。もし、ヒサゴを沈めることができないのなら、偽りの神ということが分かります。どうかいたずらに、我が身を滅ぼされませんように」
すると突然、つむじ風が巻き起こり、ヒサゴを引いて水に沈めようとした。ところがヒサゴは、波の上を転がって沈まない。濁流に吞みこまれそうになりながらも、遠くに浮いて流れていった。茨田連衫子は死なず、堤も完成した。茨田連衫子は才覚で死を免れたのである。だから時の人は、2か所を特別に「強頸断間(こわくびのたえま)」「衫子断間(ころもこのたえま)」と名付けた。
河内湖の北側でも、水害が起きていたことが分かる。だから、必死に堤をつくったのだろう。
(『地形で読み解く古代史』より構成)