地形と地理から大津宮の意味は解ける
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑬
天智天皇は盤石な体制で遷都を仕掛けたのではなかった!
天智天皇の最晩年、病の床に臥せった天智天皇は、大海人皇子を呼び寄せ、禅譲の意思を伝えた。この時大海人皇子は、懇意にしていた蘇我系のある人物から、「言葉に用心なさいますように」と、忠告されていた。そこで即座に出家し、吉野に逃れたのだった。おそらく大海人皇子が首を縦に振れば、言いがかりをつけられ殺されていたのだろう。天智天皇の側に立っている人間は「虎に羽根を着けて放ったようなものだ」と、臍をかんだという。
こののち天智天皇は崩御。天智天皇の息子・大友皇子と吉野の大海人皇子はにらみ合いを続けるが、「隠棲しているのに、大友皇子が軍勢を集めている」と、声高に叫び、大海人皇子は東国に逃れ、一気呵成に近江朝を滅ぼしたのだ。最後の決戦の場は、瀬田川に渡された瀬田の唐橋であった。
なぜ大海人皇子が裸一貫で東国に逃れ、乱を制したかといえば、蘇我氏も大海人皇子も、東国と強く結ばれていたからだ。詳述は避けるが、これは継体天皇から継承された、人脈である。
なぜ天智天皇は、大津宮を選んだのか、その答えは、すでに出ている。天智天皇は盤石な体制で遷都を仕掛けたのではない。蘇我氏と妥協し、蘇我氏と手を組まざるをえなかったのだ。だから、憎い大海人皇子を皇太子に立てた。しかし、天智天皇にすれば、逆転劇を狙っていただろうし、もし天智の代に適わなくとも、大友皇子が即位できるカラクリは、用意していたのではなかったか。
そして、もし仮に大海人皇子と大友皇子が対立し、戦端が開かれたら、大海人皇子は東の軍勢を率いて攻め上ってくるだろうと、予想はついていたのだろう。だから、瀬田川の西側に宮を建て、瀬田川を城の堀に見立て、東からやってくる軍勢を阻もうと目論んだにちがいない。
「地理と地形」から、大津宮の謎は、はっきりと解けた。
(『地形で読み解く古代史』より構成)
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