藤原のための天皇・聖武天皇
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑭
「反蘇我派」の中心勢力は、藤原氏
大津宮の謎は解けたが、このころの政治の動きは、日本の地理と歴史を知る上で、避けて通れない場面なので、もう少し説明を加えておく。ただし、以下の記事は、筆者の仮説をもとに、話を進めていく。詳細は、他の拙著を参照していただきたい。
さて、7世紀後半から8世紀にいたる激動の時代は、登場する歴史のキーマンたちを「親蘇我派か反蘇我派か」の基準で峻別していくと、おおよその歴史の流れがつかめてくる。「反蘇我派」の中心勢力は、藤原氏だ。
近江朝を倒した親蘇我派の大海人皇子は都を飛鳥に戻し即位する。これが天武天皇で、蘇我氏の遺志を継承し、近江朝で頓挫していた改革事業を、ブルドーザーのように押し進める。独裁権力を握り皇族だけで政権を運営し、合議だけでは達成できない律令の整備を急いだのだ。
豪族たちから土地と民を奪い、民に農地を平等に分配する作業だ。律令が完成すれば、かつてのように、有力者(貴族=旧豪族)による合議制が復活する手はずになっていたのだ。
ところが、事業の半ばで天武天皇が崩御し、混乱が生じた。皇后の鸕野讃良(のちの持統天皇)が、息子・草壁皇子の即位を願うあまりに、息子の最大のライバルである大津皇子(草壁皇子にとって異母弟)に濡れ衣を着せて殺してしまったのだ。鸕野讃良は親蘇我派の有力者たちに疎まれ、草壁皇子の即位の芽も摘み取られた。すると鸕野讃良は、あろうことか、中臣鎌足の子で壬申の乱ののち没落していた藤原不比等に近づき、謀略をめぐらせ、皇位をさらって行く……。
こののち、藤原氏は天皇家の外戚になるために、涙ぐましい努力を重ね(はたから見れば、我欲のために、なりふり構わぬ手段を駆使し、皇族でさえいうことを聞かなければ抹殺してしまうという、じつに恐ろしい存在であった)、持統天皇の孫の文武天皇(草壁皇子の子)と藤原不比等の娘の宮子の間に生まれた首皇子を即位させる。これが、聖武天皇だ。
聖武天皇の正妃になるのは藤原不比等の娘の光明子(母宮子の異母妹)で、聖武天皇は「藤原のための天皇」になるために育てられた。事実前半生の聖武天皇は、藤原氏の期待に応えた。
ところが、ある時を境に聖武天皇は「反藤原の天皇」に豹変し、藤原氏と死闘を演じていくのだ。
ここが日本の歴史の、大きな境目になっていく。
(『地形で読み解く古代史』より構成)