反藤原の天皇に化けた名君・聖武
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑮
聖武天皇が、恭仁京を選んだ理由
なぜ藤原のための天皇になることを宿命づけられ、藤原の人脈に囲まれた聖武天皇が反藤原の天皇に化けたのか、なぜ周囲はこれを止めることができなかったのか、その事情に関しては、このあと、ふたたび考えてみたい。ここでは聖武天皇がなぞの関東行幸を敢行したことについて、触れておきたい。
天平12年(740)10月、聖武天皇は九州で藤原広嗣の乱が起きている最中(実際には終結していたが、都に報告はまだ届いていなかった)関東行幸を断行する。
聖武天皇は、伊賀、伊勢、美濃、不破(関ヶ原)、近江をめぐり、山背国の恭仁京(京都府木津川市)に留まり、都を造り始める。その後、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に移り、平城京に還都するのは、天平17年(745)5月で、足かけ5年の彷徨である。
一般に、聖武天皇に対する評価は低く、この行幸も「わがままな王のご乱心」程度にしか考えられていない。酷評する学者の中には、「ノイローゼ」の烙印を捺す者もいる。
しかし、聖武天皇は頭脳明晰。決断力のある名君であった。
まず、行幸ルートが、曾祖父・大海人皇子(天武天皇)の壬申の乱の足跡を辿っていて、それはなぜかといえば、大海人皇子がそうだったように、反蘇我政権に反旗を翻したのだ。その意思表示であり、強烈なアピールなのだ。
「もし逆らうなら、もう一度壬申の乱を起こす」
と、藤原氏を脅しているのだ。
問題は、「壬申の乱の足跡を訪ねた」のは確かにしても、なぜ恭仁京と紫香楽にこだわったのか、だ。恭仁京は、平城京の藤原氏と対峙する場所として、まだ理解できる。平城京は藤原氏が天下を支配するために造られた都だった。
普通都城、北側の中央に王の宮殿が造られ、南側に左右対称に造られる。しかし平城京の場合、東の隅に、外京が付け足された。そこに藤原氏が拠点を構えたのだ。氏寺の興福寺や春日大社を建立している。この一帯は、高台になっていて、宮城を見下ろす場所にある。都で変事が起きれば、藤原氏はこの高台に逃げて応戦しただろう。平城京の一等地が外京であり、藤原氏はここを独占することで、誰が平城京の主なのかを、貴族と民に見せつけたのである。
聖武天皇は「平城京にいては、藤原氏に対抗できない」と踏んで、恭仁京を選んだのだろう。南側の木津川が、城の堀の役目をしてくれる。平城京からやってくる敵を防いでくれる。背後に丘陵地帯があるから、いざとなれば、落ち延びられる。
ならば、なぜもう1か所、辺鄙な紫香楽を選んだのだろう。ここに、意外な地理の盲点が隠されていたのだ。
(『地形で読み解く古代史』より構成)