かつて京都に存在した巨大な湖。交通の要衝でもあった。その名は?
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑯
戦前まで、存在した湖沼、池
紫香楽は深い森に覆われている。かつて、この木材を切り出し川に流していたという記録がある。流れ着く先は琵琶湖だ。
琵琶湖に流れ着いた木材は、大津付近に集められ、ふたたび川に流したようだ。それが、瀬田川(宇治川)で、行き着く先は山背(山城)国の宇治である。
JR奈良線は京都を出て奈良に向かう途中、宇治の付近で不自然なコースを取る。左(東)に大きく迂回するのだ。まっすぐ進めば良いのに、伏見の南側で半円を描くようにして遠回りをしている。じつはここに昔、大きな湖沼が存在したのだ。それが、巨椋池で、「池」と呼ばれていたが、豊臣秀吉が干拓事業を始める前の巨椋池は、ちょっとした湖といった方が正確である。
宇治川のすぐ近くに、現存日本最古の石碑がある。それが宇治橋断碑で、7世紀に秦河勝が建立した橋寺(放生院、京都府宇治市宇治)に保存されている。大化2年(646)にヤマトの元興寺の僧・道登が、宇治川に橋をかけたという。この宇治橋は、瀬田の唐橋(大津市)、淀川の山崎橋(京都府八幡市と大山崎町)と並ぶ日本三古橋として名高い。それだけ、重要な、交通の要衝だったわけである。
ここに橋をかけたのは、東側が宇治川の急流で、西側が巨椋池だったからだ。古代の橋の架かっていた場所とそれほど離れていない場所を鉄道が通っていると思うと、なにやら感慨深い。
柿本人麻呂の巨椋池の歌が、『万葉集』に残されている。
巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし(巻九─一六九九)
巨椋の入江が響めいている。伏見の田んぼに雁がやってきたのだ、と歌っている。湿地帯と湖沼と田んぼの広がる景色が目に浮かぶ。
あまり知られていないが、戦前まで、湖沼は存在したのだ。豊臣秀吉の時代に干拓事業がはじまり、徐々に小さくなっていった。伏見城造築に際し、水の流れが変えられ、池に流れ込む川もなくなってしまったのだ。逆に言えば、それ以前の巨椋池は、無尽蔵に流れ込む水を蓄え、たっぷりとした水面をたたえていたのだろう。
幕末、坂本龍馬が伏見の船宿寺田屋で襲撃を受けているが、なぜ「船宿」が伏見にあったのかというと、もともとは巨椋池が巨大な水上交通のジャンクションで、川の流れが変わったあと、伏見が港としての機能を果たすようになったからだろう。巨椋池、あるいは伏見から船を出せば、そのまま淀川を下り、大阪に出られる。いわば伏見は、幕末の「東海道本線・京都駅」のような役割をはたしていたわけだ。
巨椋池は琵琶湖から下ってきて、そのままどんどん下っていけば、大阪に出られた。それだけではない。三重県伊賀市から京都府と奈良県の県境付近を流れ下ってきた木津川も、巨椋池で合流する。すでに述べたように、巨椋池から少し木津川を遡れば、恭仁京に達し、さらに、なだらかな奈良阪を越えれば、平城京に出られる。巨椋池がいかに重要なジャンクションだった、よく分かっていただけたと思う。
そして、なぜ聖武天皇が藤原氏に対抗するために恭仁京を選んだのか、その意味が分かってくるのである。
まず第一に、すでに触れた「平城京に対峙する」目的があった。第二に、水運の要・巨椋池が近かったことが挙げられる。紫香楽から前を流れる野洲川から木材を流せば、琵琶湖、宇治、巨椋池を経由し、木津川を伝って恭仁京にも資材が届く。まったく関係無いと思われてきた紫香楽と恭仁京が、聖武天皇の頭の中で、はっきりとつながっていたことが分かる。
聖武天皇は、藤原氏に対抗するために、関東(東国)行幸をして、態度を鮮明にした。そして、大海人皇子が東国と結ばれて壬申の乱を制したように、紫香楽に拠点を設け、いざとなれば東国の力を紫香楽に集め、さらに、水運を伝って恭仁京に財と人を集める算段をつけていたのだろう。
(『地形で読み解く古代史』より構成)