会津の人々に「愛」がなかった!? 徳川軍迎撃に備える直江兼続
外川淳の「城の搦め手」第12回
今回は、直江兼続が関ヶ原合戦の折に築いた会津領内の城や陣地について触れてみたい。
直江は、徳川家康との戦いを決意すると、会津領内に数多くの城を築いた。国境の峠には徳川勢を迎撃するための臨時陣地を急造し、戦術的拠点となる城に対しては、徹底的な強化をほどこした。
徳川家康率いる軍による会津征討に備え、強化された城の典型例が鴫山城(しぎやまじょう)である。
鴫山城の見所は、城を延々と取り巻く巨大な空堀と土塁といえる。堀の底から土塁の頂部は5メートルにも及び、城好きを興奮させる歴史的遺産が今に伝えられる。直江の命によって、会津領内に築かれた陣地や城の遺構を見ると、上杉主従が本気で徳川勢を迎撃しようとしていたことがよくわかる。
現実の歴史の流れでは、会津攻めは石田三成の挙兵によって中止されるが、直江は軍師としては、会津攻めは実行されるという予想のもと、完璧な迎撃体制を準備していたのだ。このような歴史的事実を残された遺構から探ることは、城巡りの醍醐味である。ただ、鴫山城をはじめ、上杉の防御陣地を訪ねてみると、その雄大さに驚かされるとともに、直江の会津に住む人々に対する「愛」の欠如を感じた。
上杉家は関ヶ原の2年前に会津へと転封され、関ヶ原での戦後処理によって米沢へと移り、わずか3年で会津から去った。このような結果が見えていたからではなく、また築城工事に徴集された人々にはそれなりの対価は支払われたと想定される。とはいえ、会津攻めに備えた陣地や城が巨大であればあるほど、過酷な労働を強いられた人々のことにも思いが至る。
城に限ることなく、歴史にはさまざまな見方がある。歴史を表からだけではなく、搦め手から分析すると、まったく違う風景も見えてくるのだと思う。