後世まで語り伝えられることになった、「一ノ谷の戦い」における源範頼・義経兄弟の奇襲作戦とは
激突! 源平合戦の軌跡 第3回
源範頼・義経兄弟率いる
源氏軍の奇襲とは……
寿永2年(1183)7月、木曽義仲の入京直前に都を落ちて、いったんは九州まで逃れた平氏一門は、その後、讃岐屋島(香川県高松市)に本拠をおいて次第に勢力を回復し、備中水島(岡山県倉敷市)の合戦では義仲の派遣軍を破り、翌年2月になると旧都福原(神戸市兵庫区)に進出するまでになっていた。
しかし2月7日、福原をはさんで東の生田ノ森(大手)、西の一ノ谷(搦手)にそれぞれ城郭をかまえて防備を固めていた平氏軍を源範頼・義経兄弟の率いる源氏軍が襲って敗走させた。一ノ谷の戦いである。
大手口を攻めたのは摂津方面から進んだ範頼を大将軍とする5万余騎。一方、搦手の大将軍義経は丹波路を通り、播磨・丹波の国境付近三草山の夜戦で平氏軍を撃破したのち二手に分かれた。土肥実平隊7000余騎を一ノ谷の西方へ向かわせ、義経自身は平氏の背後を突くために3000余騎を率いて一ノ谷の後方、鵯越(ひよどりごえ)にまわったのである。
合戦は7日早朝から始まり、生田ノ森では河原兄弟、一ノ谷では熊谷直実父子らが先陣争いに活躍したが、勝敗を決定づけたのは、義経みずから先頭に立ち、切りたった断崖を下ったことから、のちのちまで「鵯越の坂落とし」として語り伝えられるようになる奇襲戦法であった。
この時、義経らは小石まじりの砂地を2町(約218メートル)ばかり流れ落ちるように下り、途中、平坦な場所で、いったん止まってからさらに14〜15丈(42〜45メートル)もの苔むした大岸壁が垂直にそそり立っているところを下っていったという。背後をつかれた平氏軍は大混乱に陥り、多数の戦死者を出して、海路、屋島へと敗走することとなった。
一ノ谷や生田ノ森で討たれた平氏の人々の中には、一ノ谷を固める大将軍で歌人としても有名な忠度や、錦の袋に入れた笛を腰に差していた17歳の敦盛、父知盛をかばい身代わりとなった16歳の知章らの若武者、助命を乞う源氏側の武士の巧みな言葉に油断したところを突き倒された侍大将越中前司盛俊もいた。