日本の強い集団意識のルーツは中世の村社会にあった!?
ニャンと室町時代に行ってみた 第3回
地頭の過酷な支配に抗う農民
近年は虐待やハラスメントに対する意識が高まってきたこともあって、あまり行われなくなりましたが、1980年代頃まで、日本の家庭では子どもがルールを破った時、家の外に追い出して懲らしめるという習慣がありました。これに対して欧米では、子どもに罰を与える場合、部屋に閉じ込めて自由を奪うという方法が多いようです。〝村八分″という言葉もあるとおり、村社会から疎外されることを嫌う日本と、個人の権利や自由を重視する欧米との文化の違いがよく表れているといえます。
このような日本人の共同体における連帯意識は、中世以来の村社会に起因しているのかもしれません。古代から中世にかけての日本の農村は、自分の権利は自分自身で守る「自力救済」が基本でした。鎌倉幕府の法令では、農民と地頭の争いにおいて農民の言い分が正しい時、地頭が横領した財産は返さなければならないという規定が設けられていました。ただし、これは幕府が農民の保護を保証するというよりも、あくまで農民が安心して生活できる条件を整えるよう地頭に命じたものでした。そのため、現実には地頭の横暴に悩まされる農民は多く、家族を人質に取られ脅迫されることもありました。
地頭の過酷な支配に対抗するために、農民たちにできることは団結でした。これは「一味」と呼ばれ、神仏の名を記した起請文を焼いて灰にし、水に溶かして飲む「一味神水」は、団結を誓う農民たちの儀式として知られています。南北朝時代になると「惣百姓申状」という荘民全員の連名による訴訟が広く見られるようになり、抵抗はより組織だったものになっていきます。それでも要求が通らない場合は「逃散」「上げ田・苅田拒否」などの方法が取られました。
逃散は農民が自分たちの田畑を捨てて山野に逃げ込み工作を拒否することです。農民の逃亡というと、かなりの重罪のように感じられますが、きちんとした手続きを踏めば認められる農民の権利の一つで、絶望的な逃避行ではなく、より住みやすい農村生活を作るための訴訟の一形態と位置づけられています。一方、上げ田は田畠を返上すること、苅田拒否は農作物の刈り入れを拒否することです。いずれも耕作を放棄するサボタージュの一種で、年貢の減免要求などの際に行われました。大事な時期に借り入れができないのは領主にとって大きな打撃ですから、逃散に勝るとも劣らない威力を発揮したといわれています。