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第21回:「子ども 表記」

 

<第21回>

2月×日【子ども 表記】 

街に雪が降った。

家の前の雪かきをしていると、近所の子どもたちが雪合戦や雪だるま作りに興じていて、おもわず目を細める。

子どもがなにかに一心不乱になって遊んでいる姿を見るのが好きだ。基本的に僕はヒマなので、よく昼間に公園へ散歩に出かけるのだが、そこでは様々な子どもの姿を目撃することができる。

春には、砂だんごをジャリジャリと食べて、親に「どうしてそんなことしたの?!」ときつく問い詰められると、「天気がよかったから・・・」という全然答えになっていない返しをする子どもを見た。

夏には、ペットボトルの中にセミと水を入れ、シャカシャカとシェイクして、世界一偏差値の低いカクテルを作ることに夢中になっている子どもを見た。

秋には、口げんかがヒートアップして「お前はかき氷を食べたあとに、お湯を飲め!」「なんだと!」という独特のディスり合いをするふたりの子どもを見た。

そして冬。いま目の前にいる子どもたちは自分たちが時間をかけて懸命に作った雪だるまに平気でおしっこをかけている。

こういった子どもの姿を見るのが、好きだ。素直に、微笑ましく思う。しかし「子どもが好き」ということをここでアピールしてむやみに好感度が上がってしまうのもアレなので、バランスを取るために好感度を下げる発言をすると、ウサギは吐き気がするほど嫌いだし、カピバラなんかは煮たいくらいだ。

で、まあ普通に子どもが好きなこともあって、かつて中学生に関する本を書いたり、雑誌で小学四年生の生態を特集するなど、子ども絡みの仕事も時たま舞い込むわけだが、こうして「子ども」「子ども」と書き連ねていると、いつも釈然としない思いが浮かぶ。

すごく基本的なことを言うのだが、「子ども」の「ども」って、これ、どうなんだ。

なんたって、「ども」である。

「野郎ども、よく聞け、船長命令だ」
の「ども」である。

「愚かなる人間どもよ、神の怒りに怯えるがよい・・・」
の「ども」である。

「ドモフォルンリンクルは最初の一滴だけを使っています」
の「ドモ」ではないのである。

どう考えても、この「ども」には、上の立場の者からに対する「下に見ていますよ」というニュアンスが混じっている。

ずっと、この「子ども」という言葉の「ども」という部分に、違和感を覚えている。

「子どもって素晴らしいですよね」とか「子どもが安心して暮らせる未来へ」とか「子どもの権利条約を守りましょう」とか、そういうセリフを聞くたびに、「いやでも、『ども』って言っちゃってるじゃないすか」という一抹のひっかかりが胸中に湧く。

きっと同じことを考えている人も多いはずだ。「子ども」という言葉を使うのはやめて「童」とか「キッズ」って呼びましょう、みたいなムーブメントもあるのではないか。そう思い、「子ども 表記」で検索をした。

そしたら、「文部科学省が『子ども』という言葉は公文書内において『子供』に統一」することにしたという2013年6月のニュースが出てきて、またそれにまつわる「『子ども』でも良いのではないか」「いや、はやり『子供』だろう」という、漢字表記かひらがな表記かという議論が様々な場所でなされていた。
そもそもの「ども」自体を疑う声を、その議論の中から見つけることはできなかった。

ひとつ、恐れていることがある。

ある日、世界中の子どもたちがふとした瞬間に砂だんごを作る手を止め、「あれ?オレたち、『子ども』って呼ばれているけど、もしかして下に見られている・・・?」と互いに目を合わせ、数秒の間が合ったのち、無言で全員が立ち上げり、砂だんごを握りしめたまま、「ざっざっざっ・・・」という足音を立てて、大人帝国に反旗を翻さんと進行してくる。そんな日がいつか来るのではないかと思うと、夜も眠れない。

なので、今日から子どものことはひとまず「お子」と呼ぼうと決心した。

 

 

*本連載は、毎週水曜日に更新予定です。

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ワクサカソウヘイ

わくさかそうへい

1983年生まれ。コント作家/コラムニスト。著書に『中学生はコーヒー牛乳でテンション上がる』(情報センター出版局)がある。現在、「テレビブロス」や日本海新聞などで連載中。コントカンパニー「ミラクルパッションズ」では全てのライブの脚本を担当しており、コントの地平を切り開く活動を展開中。

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