官位は武士から農民、職人にいたるまでみんなの憧れだった
ニャンと室町時代に行ってみた 第4回
勝手に官位を出して家内秩序を維持する大名もいた
官位は古代の大和朝廷で、中国の隋・唐の律令制にならって導入されたものです。有力な豪族に朝廷の仕事を世襲的に請け負わせる「氏姓制度」をやめ、天皇を頂点とする集権体制の下、能力のある人材を登用し国家の任務にあたらせることにしたのです。この官僚制のベースとなるのが官人の序列を表す位階、朝廷の職掌である官職で、合わせて官位と呼ばれ、位を授ける叙位と官職を決める除目によって決定されました。マンガには官位に執着する僧侶の霊が登場しますが、僧侶にも「僧綱」と呼ばれる官位制があり、僧正・僧都・律師などの「僧官」、法印・法眼・法橋などの「僧位」が設けられていました。
官位は天皇の勅許により授けられますが、その形式は武家政権の発足後も基本的に変わりませんでした。ただし源頼朝以来、武家政権の長は御家人が直接天皇とつながることを嫌い、武士の叙位任官を司る官途奉行が朝廷へ奏請し、勅許を得たうえで一人ひとりに官位が下されました。武士は幕府の許しがなければ任官できないようになっていたのです。
大名が官位を得る手順は以下のとおりです。まず幕府の官途奉行にどの官位が欲しいのかを届け出、奉行から朝廷に奏請された後、朝廷の口宣案が下され、晴れて叙位任官の運びとなります。しかし、室町幕府の権威が低下すると、戦国大名は公家や女官など独自のルートを使って、天皇への取次を願うようになります。この時、多額の献金が贈られ、これが貧窮する朝廷の貴重な財源になりました。
たとえば、中国の守護大名・大内義興は天皇と公家の三条西実隆に太刀と銭200貫を贈って従三位の位階と左京大夫の任官を許されました。織田信長の父信秀は朝廷の懸案だった伊勢下宮仮殿の造替費を負担し三河守に任じられています。三河守や陸奥守など国司の官名を受領名、左京大夫のような京官を官途名といい、合わせて受領官途名と呼ばれます。武士にとって名誉だっただけでなく、分国の受領名を名乗ることで支配の正統性を証明するという実質的な意味もありました。
一方、大名や武将の中には朝廷の許可を得ないで、勝手に官職名を名乗る者もいました。若い頃の織田信長の「上総介」も、その一つといわれています。あるいは、大名が朝廷の許可を得ず家臣に官途受領名を授けることも行われました。この場合は、家臣が主君に希望する受領官途名を届け出、それを受けて大名が印判状を与えるという手続きが取られたようです。
大名によっては、家法の中で家臣が勝手に官途受領名を名乗ることを禁じたり、合戦の恩賞として与える場合もありました。大名自身が官途受領名を与える権限を掌握することは、大名権力と家内秩序を維持するためにも大切だったのです。
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