京王線の知られざる旧線(仙川~調布)【後編】
ぶらり大人の廃線旅 第18回
線路跡を証言する標柱が2か所
ひとつ上流側の橋で右岸へ渡り、中学校の体育館に沿って歩くと、学校の敷地内に標柱が立っていた。比較的新しそうで、「元京王電車ここを通る(大正~昭和初期)」というもの。もう一方の面には「京王電気軌道 軌道敷跡」とあった。実際に電車が走ったのは大正2年(1913)4月から昭和2年(1927)12月までの約14年8か月に過ぎなかったわけだが、地域の歴史を現地にきちんと記録しておく姿勢は嬉しい。
その少し先も道路が線路の角度でごく短距離で続いており、その先の畑の一部が築堤の痕跡のように盛り上がっていた。場所や角度から見ておそらく間違いないだろう。その先を反対側から入ってみると、ちょうど畑で作業中の60代後半とお見受けする男性を見かけたので線路跡であるか尋ねると、まさにここだと両手を広げて首肯してくれた。その人が子供の頃からもちろん廃線なので、電車が走っているところは見たことがないという。
このあたりがまさに旧国領停留場なのだが、駅跡には戸建ての家が建つのみで、もちろん痕跡などない。それでも少し離れた家の塀脇に「京王線旧国領(北浦)駅跡」の標柱があった。七中の敷地内と似たもので、同じ頃に建てられたらしい。解説によれば停留場用地は地元民の用地提供によって設置されたというから、電車の開通を歓迎したのだろう。カッコ内の北浦は、京王では当初「国領」とするつもりであったが、「地元の強い要望によって字名の北浦と変更した模様である」としている。いつ国領に改称されたかは不明だが、調布との間に布田停留場が新設され、またその他の停留場名がいくつか改称したのと同時期に改めたのではないかと推察している。社史などによれば、大正6年に改称された他の停留場は火薬庫前→松原(その後移転して現明大前)、上北沢→北沢(現上北沢)、下仙川→仙川の3か所。