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壇ノ浦の戦いで義経が達成できなかった、二つの重要ミッション

激突! 源平合戦の軌跡 第9回

全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。

壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

当初からの合戦の目的であった三種の神器の行方は……

 京都の後白河院・鎌倉の頼朝らが深い関心を寄せていた三種の神器のうち、神鏡と神璽の無事は確認されたが、宝剣は二位尼が入水のさいに身につけていたといわれ、ついに見失われてしまった。義経は平氏を滅亡させたものの、安徳天皇・三種の神器の無事帰京という頼朝の執着した目標はまっとうすることができなかったのである。

 次々に海中に沈んだり、生け捕りになっていった平氏一門のなかでも、『平家物語』がその最期をとくに印象深く描いているのが、教経と知盛である。教経は源氏方の大将義経の姿を追い求めながら、ついに叶わず、大力とうたわれた敵の武士2人を両脇に抱えたまま、知盛は「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」という有名な言葉を残して、それぞれ海に入ったという。

 

 壇ノ浦の戦いに関して、近年、注目されているものに、対馬さらには大陸にまで視野を拡大すべきだとする見方がある。たしかに指摘どおり、平氏軍のなかに唐船(大型の宋船)がまじっていること(『平家物語』)、源氏方についた九州武士団が平氏の大陸逃走を阻止するために数千艘の船をもって航路を塞いでいたこと(延慶本『平家物語』)、源氏に心を寄せていた対馬守藤原親光に対し、平氏側から3回も追討使が派遣され、このため親光が高麗へ避難していたこと(『吾妻鏡』)などの根拠があげられる。
 これらを考えあわせる時、実に興味深いテーマであるといえよう。

◎連載「激突! 源平合戦の軌跡」は今回が最終回です。

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樋口 州男

ひぐち くにお

1945年生まれ。山口県出身。日本史学者。現在、拓殖大学非常勤講師。日本中世の「歴史と伝承、絵巻・絵図」などを主に研究、執筆。著書に『中世の史実と伝承』(東京堂出版)、『日本中世の伝承世界』(校倉書房)、『武者の世の生と死』(新人物往来社)、共編著に『図説平清盛』、『図説平家物語』(ともに河出書房新社)、『再検証・史料が語る新事実・書き換えられる日本史』(小径社)、『木曾義仲のすべて』、『西行のすべて』(ともに新人物往来社)など多数。


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