「ウィッグ」で大学教授からロックミュージシャンに変身! もう一人の自分《異日常》を楽しむ人生戦略【withコロナ】
新型コロナウィルス感染症によって外出自粛を経験した私たちの日常は、緊急事態宣言解除後も予断を許さない状況が続いている。しかし、リモートワークの導入などの効果により働き方を含め、コロナとともに生きる新たな日常の生活様式も生まれ始めた今日、「異日常」の生き方を実践する識者がいる。
競争戦略が専門の経営学者で大ベストセラー『ストーリーとしての競争戦略』の著者である楠木建氏だ。普段の楠木氏の日常は大学院教授であるが、「男性用ウィッグ」を着用した瞬間、「異日常」のロックンローラーへと早変わりし、満喫している。
楠木氏の「分身」人生をとことん楽しむ「異日常」体験。今回、この異日常の可能性についてオンラインインタビューを行った。
◼︎異日常とは何か———「人間の本性」を考えること
———)競争戦略をご専門に日々の「日常」を研究者・教育者として大学院教授としてご活躍されている楠木先生ですが、私生活では「異日常」と位置付け、ベーシストとしてロックの演奏を楽しまれております。先生の発信される「異日常」とはいかなるものであるのか、お教えいただけますでしょうか?
●楠木(敬省略)———私の思考では「それが何か」を理解するために、「それが何でないのか」と頭を回す癖があります。
そこから定義すると、「異日常」とは、日常ではないもの。つまり、異日常とは、文字通り「異なる日常」です。私も含めて多くの人が普段の日常と「ちょっと異なる」でも、その人にとっての「もう一つの日常」。
端的言えば、趣味世界みたいなものです。さらに噛み砕けば、異日常とは、自分の好きなことをする活動であり、嫌いなことはしないと説明できます。
しかし、ここが重要なのですが、異日常とは「非日常」ではありません。
非日常とはイベントとかお祭り、例えば4年に一度のオリンピックだとか、一過性のものです。でも、異日常とは自分の日常にあり、しょっちゅうその趣味世界に入っていく日常です。もう一人の自分による「継続的」な異なる日常と言ってもいいかもしれません。
ものすごく釣りが好きな人は、4年に一度ではなくしょっちゅう釣りに行き、そこで普段の自分とはちょっと違った日常生活をもっているわけで、こうしたことを異日常と言います。ですから本来はこういうふうに生きたいのだけれども、日常ではそれが難しいので、異日常を求めるということではないわけです。
日常はいろいろ社会的立場に拘束されている。ゆえにそこから抜け出すために異日常があるわけではなく、単に好きでやっている普段の日常とだいぶ違った感じの生活様式になる。私の場合は、それがロックバンドの活動だったわけです。
今これだけ世の中が豊かになって時間的余裕もあり、趣味とか自分の日常以外の活動を、異日常を持っている人が増えてきているように思うのです。
———)とくにコロナ禍によるリモートワークを余儀なくされ、新しい日常の生活様式が普及すると、例えば通勤時間が減ったぶん、自分の時間として活用して「異日常」としてチャレンジしやすくなるのではないでしょうか?
●楠木)———私はコロナの後でも世の中は変わらないと思うのです。
「コロナで社会は一変する」とか、「元には戻れない」という話を聞きますが、私はまったく違う意見です。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というか、ほとんどが以前と同じになると思います。もちろんコロナによって習慣的に続いてきたことは変わることはあると思うのです。
ただそれはごくごく限られたことで、世の中はそんなに私は変わらないと考えています。
「100年に一度の危機」などとも言われますが、今世紀に入って100年に一度の危機と形容された出来事は15回くらい起きているのです。例えば、リーマン・ショック(2008年)にしても東日本大震災(2011年)にしても、あの時の危機はなんだったのかというくらい戻っていると思うのです。しかもコロナの場合は、東日本大震災のような物理的破壊がありませんので非常に元どおりになると思うのです。
そのうえで要するにコロナ問題を考える際に一番よいのは、「人間の本性」を考えることです。結局、人間の本性だけは裏切らずそれが最強の需要だと思うのです。
先に申し上げたように習慣的に続いてきたことが変わることはあり得ます。
例えば、リモートワークにより通勤時間が省略できることは「無駄で非生産的な面倒臭いことはしたくない」という人間の本性なのです。それがベースにあり、コロナでオンラインで仕事できることもわかり、その習慣は変わると思うのです。
しかし、それは人間や世の中が変わったというより「習慣によって抑圧されていたことが、コロナを機に普通に需要として出てきた」ということです。
オンラインによるリモートワークに限らず事物は「人間の負荷を下げていくっていう方向に働く」わけです。その結果、以前と比べると時間的余裕はできるわけです。そのことで異日常活動をやりやすくする方向に需要が働いていると思います。
もともと異日常という概念は、私の経営学者としての専門の競争戦略から考えた着想でもあります。「少子高齢化による人口減少社会で高度成長期と比べ総需要(市場)が伸びないなかでどうすれば将来それを増やすことができるか」という問題意識から生まれました。
異日常を考えるきっかけは、「分身すれば、需要が増やすことができる」ということなのです。人口が増えなくても一個人が分身すれば、人口が2倍になることと同じだと。
私の例で言えば、“ロッカーとしてのもう一人の自分”がウィッグを着用し、バンド活動を行うことで楽器はもとより革ジャン、ブーツなどなど「ロックっぽい」ものの消費がどんどん広がっていきます。
これが異日常における「需要創造の効果」ではないかと考えたのです。
異日常とは、その人にとってごく自然なことです。ですから決意して異日常に入ることでなく、昔からすっと音楽が好きでバンドで演奏することを自然とやっているだけでそれを「単に趣味でバンドやってます」と自分で考えるのか、それとも「これは自分にとって異日常なんだ」と考えるのか、要するに気分の問題です。
ですからロックをやっている自分は「自分にとってそれこそ日常なんだ」と思った方が気分が高揚していいという話なのです。