堺の城②・家原城跡(2)
季節と時節でつづる戦国おりおり第430回
家原城跡碑の右側(東側)をご覧下さい、この高低差。これこそ城跡の醍醐味です(笑)。
家原城は碑の説明板にある通り松永久秀の拠点となった城で、四方を崖に囲まれ、西の曲輪、南の曲輪、東の大曲輪は本丸より3.6mほど低いものの、これもそれぞれ崖や堀で守られていました。『和泉国城館跡絵図』の家原城図によると、本丸より城のある山よりさらに東に文殊堂(家原寺本堂)のある文殊山があり、それは城山より高かったそうです。
これは現在の家原寺駐車場から家原寺を眺めたものですが、往時の家原城からもこんな景色が眺められたのでしょう。
城は現在の碑がある場所からさらに西にも広がりを持ち、西の石津川と南の大池を天然の水堀にする堅固な立地でした。
よく「家原城は久秀にとって信貴山城と堺をつなぐ拠点だった」と言われるようですが、それよりも本来は紀州街道を攻め上ってくる根来衆など、三好家にとっての宿敵を防ぐためのものだったと思います。
だから、久秀支配下の時代になると北や東から攻めてくる三好党の攻撃には意外と脆く、永禄11年(1568)12月に100人余りが討たれ城将・寺町左衛門大夫・雀部治兵衛尉は自害。あっさりと陥落しています。