斎藤道三・義龍父子の名分
季節と時節でつづる戦国おりおり第431回
名分というのはいつの時代も政治にとっては必要不可欠。現代のそれは「民意」となっておりまして、国会でも地方自治体でも「選挙に勝ったのは民意だから」という理屈で政策を押し通そうという民意の拡大解釈の大安売りが横行しがち。
戦国時代の名分は、それよりもさらに重要でした。何しろ「孫子の兵法」が「道を修めよ(大義名分を明らかにせよ)」と説くくらいだから、武田信玄ほか「兵法」を信奉する武将たちは皆必死になって名分をアピールしたのです。それは自分がいかに正しいかというよりも、敵がいかに間違っているかという方向に片寄りがちでしたが、それでも名分は名分。
今から493年前の大永7年6月10日(現在の暦で1527年7月8日、異説あり)、斎藤義龍誕生,今年の大河ドラマでは伊藤英明さんが演じていましたが、西村勘九郎(後の斎藤道三)が土岐頼芸からもらい受けた一色家の娘の深芳野を母として生まれました。
深芳野は「稲葉一鉄」として知られる稲葉良通の姉(妹)ですが、のち道三が三男の喜平次に一色氏を名乗らせ、義龍も一色左京大夫を名乗ったために、彼女は一色右京大夫の娘だったという説も流されたようです。
で、なぜ彼ら斎藤一族が一色、一色と一つ覚えで騒いだかというと、これは美濃の国主だった土岐氏の本家が一色家だったから。
道三も義龍も、本来の国主である土岐から国を奪って支配している自分は土岐より上位だから当然なんだ、と大義名分を作りたくてしょうがなかったのです。
殺し合いまでした父子が、同じ論理で動いたというのも面白い話ですね。