源義家以降、清和源氏が没落していったのはなぜか?
源氏と平氏とは、どのような一族だったのか? 第2回
受領で財をなすも、内紛や横領の不祥事で没落
受領とよばれた当時の国司は、任国から朝廷へ納めるべき租税を確保することができたならば、それ以外の国からの収得物をすべて自らの物にすることが許されていた。
その結果、行政手腕に優れた人物は、受領となることで莫大な財をなすことが可能であった。受領となった武士は、一国内の治安を維持するという軍事面での活躍を見せることもできた。
源義家は、最終的に正四位下まで位を高める。このまま順調に行けば、義家の後継者たちは義家と同等の権勢と富を得ることが保障され、より高い地位を与えられることも夢ではなかったはずである。あるいは「驕る源氏」の時代が到来したかもしれない。
しかし、義家の次の世代あたりから、清和源氏には苦難の歴史が始まる。清和源氏流の中心である河内源氏(頼信流の武士)の一族の中に、武士としての名声を汚す者が現れたのである。
義家の弟である義綱は、兄同様に武名を高めていた人物であったが、一族の長の地位を兄と争って合戦を起こす。そして、義家の嫡男である義忠を殺害した嫌疑によって佐渡国に流され、その後に京に戻った後も謀反の罪で追討され自害したとされている。
同じく義家の子である義親は、対馬守に任じられていた時に租税を横領した罪を問われて隠岐国に流され、その後に出雲国でも目代(国司の代官)を殺害するなどの狼藉行為を起こし、12世紀初頭に朝廷からの追討を受け殺害される。ちなみに、この時に義親の追討に功を立てたのが、桓武平氏流の正盛である。
義家の孫で義親の子にあたる為義は、義家の後継者となり、検非違使として主に京で武士としての働きぶりをそれなりに見せたが、武士としての名声は、朝敵や海賊の追討にたびたび功を立てた正盛には及ばなかった。
同じ武家棟梁の立場にありながら、この時期あたりから、しだいに桓武平氏が清和源氏の勢力を凌駕しはじめていくのである。