毛利元就が守りぬいた城の防御力は、決して高くなかった
外川淳の「城の搦め手」第17回
天文24年(1555年)、毛利元就が陶晴賢(すえ・はるかた)を破った厳島合戦。元就の鮮やかな奇襲作戦により晴賢を自刃に追い込み、“西の桶狭間合戦”とも異名される。今回は、決戦勝利の「立役者」ともいえる宮尾城の現状を紹介してみたい。
宮島口から船で厳島へ渡れば、海上から厳島神社の鳥居や社殿が望まれ、毛利勢の将兵たちと同じ視点から、決戦当日の様子を想像することもできる。
桟橋をおりると、観光客の圧倒的多数は、土産物屋を物色しながら、厳島神社をめざすため、宮尾城跡の案内板の前で立ち止まることは、ほぼない。本丸へは、心臓の心拍数が少し上がる程度で到着できるのだが、戦国城郭特有の深い空堀や壮大な土塁があるわけではない。
本丸は、自然の地形を平に削ることにより、籠城のための空間が形成され、その周囲には、兵士たちが駐屯するために造成された曲輪が雛壇のように配置されている。
空堀も存在するものの、現状では通路を兼ねており、よほどの城好きでなければ、見逃してしまう。
宮尾城は、現況を見てみると、陶勢の猛攻に耐えたにしては、ほかの戦国城郭のように強力な防御構造ではなかったと想定できる。そのため、城兵たちが毛利方の勝利のため、必死に城を守り抜こうとした奮戦のほどが伝わってくる。
戦国時代の攻城戦では、城が陥落しそうになれば、さっさと逃げるか、降参するのが常識だった。そのため、敵将の陶晴賢は、2万もの軍勢で押し寄せれば、宮尾城は攻略できると、予測していたに違いない。だが、宮尾城の城兵は必死に抵抗し、力攻めにしても攻略できなかった。つまり、常識が通用せず、読みが外れ、むきになっていたところ、元就による奇襲を受け、晴賢は最期を遂げたという流れとなる。
元就は、決戦直前まで宮尾城が持つか否かを気にしており、宮尾城が陥落してしまえば、すべてがご破算となる危険も高かった。そんな歴史的流れを理解したうえで、宮尾城を訪れてみると、その果たした役割の大きさを実感できると思う。