平野啓一郎「テクノロジーの進歩は、人間の自由をリスクとして捉えはじめている」
『マチネの終わりに』著者が見通す、21世紀の自由論(前編)
オートメーション化する社会
「リチャードとも、そういう話を随分としたのよ。グローバル化されたこの世界の巨大なシステムは、人間の不確定性を出来るだけ縮減して、予測的に織り込みながら、ただ、遅滞なく機能し続けることだけを目的にしている。紛争でさえ、当然起きることとして前提としながら。善行にせよ、悪行にせよ、人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何になるって。」(『マチネの終わりに』)
私は『ドーン』という二〇三〇年代の有人火星探査を主題とした小説を書いたとき、約三年に及ぶ地球と火星との往復ミッションで、一番の失敗の「リスク」は、実は宇宙船自体よりも、乗っている人間のほうではないかと考えた。つまり、人間の精神が、その完全に閉鎖された過酷な環境にはたして耐えられるのだろうか、と。
現在、テクノロジーの進歩は、そうした非日常的な場面だけでなく、私たち人間の日々の行動の中に潜むリスクとコストを社会から除外することを一つの目標にしている。
たとえば、車の自動運転は、楽だから、という段階では趣味的な選択に委ねられるだろうが、人間が運転するよりもはるかに事故率が低いという段階になると、その普及は義務的なものになるかもしれない。そこでは、人間の運転の自由は、相対的に高いリスクと見なされるだろう。
つまり、この社会全体のリスク管理という観点から、人間の自由な行動領域を狭め、機械に代替してゆくというわけである。
他方、経済活動で目につくのは、一種のオートメーション化である。といっても、一九世紀から二〇世紀にかけての、私たちがよく知っている製造業のオートメーション化ではなく、二一世紀の今日では、これが個々人の消費活動にまで及ぼうとしている。つまり、製造から消費までのすべてを切れ目なく、スムーズにオートメーション化する発想である。
その典型が、ネットのeコマースだ。ユーザー・インターフェース(商品購入画面など)は、人間の視線の動きや色彩から受ける印象、クリックしやすいボタンの形や関連ページへの誘導のタイミングなど、すべてが、消費者と商品との双方向的な関係の中で計算され、デザインされている。
それは、ポスターのように、見る者が操作する必要のないグラフィック・デザインとは、根本的に性格を異にしたものである。
そして、そのデザインは、消費者の声を受け、あるいは、ページあたりの滞在時間や商品購入の有無といったデータによって、最適化されるべく更新される。
この親切で当然というユーザー・インターフェースの感覚は、いまあらゆる商品に対して広がっていて、たとえば、小説のようなものであっても、「読みにくい」というのは、作者が作品と読者とのインタラクション(相互作用)に鈍感なせいだからだ、といった見方になる。
eコマースでは、そもそも、その購入画面にたどり着くまでに、個々の消費者にカスタマイズされたレコメンドのメッセージが何度となく送られており、私たちはあるいは、ネット上のいたる場所にちりばめられた広告を目にし、自分が親しい人たちと繋がっているSNS上で商品についての評判に触れて、関心を掻き立てられている。
購入画面では、商品解説だけでなく、その評価に大きく影響される。
売れ行きのみならず、購入者の属性とその後の評判、電子本やストリーミングの映画であればその鑑賞のされ方までもが細かにデータベース化され、分析されて、さらに商品開発や販売ラインにフィードバックされ、その全体がシームレスに、安定的に循環することが目指されているというのが、今日のマーケティングである。
生産も広告も消費も、そのどこかが滞ってしまえば、マネーを介して作動し続けるこの一連のシステムは破綻してしまうというその意味では、消費者も言わば機能であり、リスクを抱えた「部分」なのである。
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