平野啓一郎「ツイッターの文字数制限は『書かなくてよい自由』をもたらしている」
『マチネの終わりに』著者が見通す、21世紀の自由論(後編)
「しなくていい自由」
しかし、である。こうした状況の一体何が悪いのか? そう思う読者も少なくないだろう。事実、これをただ、「自由を手放しているから問題だ」などと批判してみても始まらない。
問題は、一人の人間にとっての今日の世界の過剰さであり、その複雑さは、何らかの形で縮減されなければならない。
文学の世界にせよ、ゲーテがまさに「世界文学」という概念を唱えた一九世紀とは違って、現代では、毎年世界中で莫大な数の本が刊行されていて、しかもそれらがデジタル・データ化されてひたすらストックされ続けている。教養として読むべき本を絞り込むことすらままならない。
にもかかわらず、私たちの人生の時間は有限であり、一日の時間は貧富を問わず、誰がどうやっても二十四時間以上にはならないのである。
私たちは、何よりも読みたい本を読みたい。そのタイトルが明確なこともあれば、偶然手に取って、読後に初めて「こんな本が読みたかった!」と気づくこともある。
前者へのアクセスを断たれることは、明確な自由の制限である。後者へのアクセスが検閲等によって制限されている場合も同様である。
しかし、オススメに優先順位をつけるやり方で、アクセスそのものは可能だが、実質的には存在していないかのような商品がある場合はどうか。
私たちはそのために、何か貴重な体験の機会を奪われているようにも見えるが、他方で、余計な体験に時間を取られずに済むという利点もある。
私たちに自由意志があり、それを実現するのが自由だという発想の困難は、肝心の自由意志が、非常に不確かで、把握が難しく、一貫しない点にある。
自由のためには、何よりも自由に使える時間の余白が必要であり、余剰の資金が必要である。つまり、自由が継続的に保証されるためには、他の何かを「しなくていい自由」が不可欠なのである。
たとえばツイッターの場合、140文字という制限によって、もっと書きたいという自由は損なわれているが、見方を変えれば、それ以上は「書かなくてよい自由」が守られているとも言える。
読んだ本や映画の感想、あるいは政治的意見の表明などは書こうと思えばいくらでも長くなる話題で、もしそれが可能ならば、書き手はそのために費やす時間を毎日確保できなくなり、また、見る側もさまざまな人の投稿を眺めるのにより多くの時間を取られてしまう。
重要なのは、別に文字数制限がなくても、短い言葉に留めることは可能だが、それがあるおかげで、どんな重要な話題でも長いコメントを求められることがなく、また短く書くという方針を自分で定めたり、その理由を説明したりしなくて済む、ということである。
それが使用時間の抑制に繋がり、他のことのために使われる時間を奪いすぎないというのがツイッターの利点である。
ツイッター社自身としては、ユーザーにより多くの時間を自社のサーヴィスで費やしてほしいだろうが、文字数を増やす仕様の変更などは、感覚的には「書かなくてよい自由」を取り上げられるような迷惑さがある。
同様に、ラインでのやりとりやオンラインの対戦型のゲームに巻き込まれて、勉強その他、「他のことをする自由」が圧迫されている子供などは、学校が帰宅後の使用時間帯に制限を課すことで、むしろ解放された、ほっとした、というような言葉を漏らす状況もある。
それとて、自分で決断して時間制限をすればよいとも言えようが、現実的にはコミュニケーションの力学がその自由を許さない。これは、自己責任論では強弁しきれない問題である。
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