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三鷹の「連雀」という地名は神田の行商人にルーツがあった

第2回 地名にひそむ由来の謎 「下連雀」「芋窪」「奈良橋」

「芋窪」とは何か

 蔵敷の西隣は「芋窪」という町だが、この地名も珍しい。「いもくぼ」と読むことができても「何を意味するのか、よくわからない」と思う人が多いのではないだろうか。

 蔵敷高札場跡から青梅街道を西へ進むと、貯水池下というバス停があり、その北方に歴史を感じさせる豊鹿島神社(東大和市芋窪1)がある。本殿は都有形文化財。近年の調査では「文政元年(1466)」の棟札が発見され、東京都内に現存する最古の神社建築であることが明らかにされた。

 地名の芋窪は、珍しい木製狛犬の裏書にある「井能窪」に由来する。「井のある窪地」という意味らしい。古くから「井の窪」とか「井野窪」と記されてきたが、この「イノ」が転化して「イモ」となり、芋窪の字を当てるようになった、と考えられている。

(C)国土地理院/地理院タイル/標準地図

 蔵敷の東隣は「奈良橋」という。1丁目から6丁目まで、南北に連なる。奈良といえば、大和の奈良を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、奈良橋の奈良はそれと無関係だ。

 奈良橋は狭山丘陵の南麓に位置するが、先に紹介した蔵敷、芋窪などと同じように古い村だった。この「奈良」は平らな場所とか、緩やかな傾斜地を呼ぶことばとされる。緩やかな傾斜地の畑を「ならいの畑」というところもある。

 奈良橋の「橋」は、そのような土地の端だったのが、いつのまにか「橋」の字を当てるようになったのではないか、という。もともと東大和市の奈良橋は、八幡神社(奈良橋1)から南へつづく緩やかな傾斜地にできた集落だった。

 東大和市の南端、立川市に接して「南街」という町がある。「南街」とは風変わりな町名である。昭和13年(1938)、畑だったところに軍需工場が出現。社宅もつくられ、多くの従業員が住むようになり、病院や郵便局、幼稚園まで整備された。

 北部の農村地帯とはまるで異なる地域だった。人びとは「南の工場街」といったが、やがて「南街」という通称が生まれた。戦後は、ほとんどが米軍大和基地になったが、返還されたあと、社宅区域は昭和55年(1980)、通称の「南街」が正式に行政地名となった。

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中江 克己

なかえ かつみ

北海道函館市生まれ。河出書房、思潮社などの編集者を経てノンフィクション作家。江戸を中心に、歴史の意外な側面に焦点を当てて、執筆をつづけている。



著書は『大江戸〈奇人変人〉かわら版』(新潮社)、『忠臣蔵と元禄時代』(中央公論新社)、『徳川将軍百話』(河出書房新社)、『日本史の中の女性逸話辞典』(東京堂出版)、など多数。ほかに染織文化にも造詣が深く、『色の名前で読み解く日本史』(青春出版社)、『歴史にみる日本の色』(PHP研究所)『江戸東京の地名散歩 歴史と風情を愉しむ』(ベスト新書)などの著書も多い。



 


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