武士にして最高峰の歌人! 文武両道ゆえに戦国で生き残った細川幽斎
第二十四回 SAMURAIファイル 細川藤孝(細川幽斎)
日本が誇る錚々たる戦国武将たちの魅力。
外国人の目に我が国の英雄たちはどう映っているのか
侍は「戦う」スキルだけではなく、茶道や書などをたしなむなどの教養を持った人も多くいました。文武両道。戦国武将・細川藤孝(細川幽斎)も、その一人です。
1600年、関ヶ原の合戦のとき、丹後田辺城に隠居していた幽斎。息子の細川忠興は、上杉討伐に参加していたため、田辺城にはいませんでした。
西軍からの攻撃を受けた田辺城にいたのは、幽斎と500の兵のみ。しかも相手は、1万5000の兵。勝てる見込みは、ほとんどなし。
そんな幽斎の命を救ったのが、歌道(和歌に関する学問)だったんです!
幽斎は、天皇の命によって編集された「古今和歌集」の読み方や解釈を伝授された、かなりの重要人物。しかも幽斎の弟子たちが西軍の中に、たくさんいたので、田辺城を積極的に攻めることができませんでした。
しかも大切な「古今和歌集」は、幽斎と共に城の中! これは大変!
そんな状況を知った後陽成(ごようぜい)天皇と天皇の弟であり、幽斎の弟子だった八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)。
「幽斎がいなくなっては、この「古今和歌集」の秘伝を伝えるものがいなくなってしまう。
田辺城の攻撃禁止。「幽斎も無謀なことはやめて、命を守りなさい」と説得するものの、幽斎は それを聞き入れず、逆に幽斎は死を覚悟しているのか「古今和歌集」伝授に関する資料などを弟子たちに送ってきました。
最後は、天皇からの勅使がやってきたため、田辺城を開城しなければならなくなった幽斎。
約2ヶ月の戦いは終了。それは、関ヶ原の戦いの2日前!
ということは、1万5000人の西軍は、この田辺城にいて動けず関ヶ原の戦いには参加できなかったということ。この1万5000人が関ヶ原に行っていたら、西軍は勝てたかなぁ??そんなことを考えるのも、歴史の楽しみ方ですね。
幽斎の命が守られたおかげで「古今和歌集」は、幽斎から次の世代へとちゃんと伝えられました。良かった…。
戦国時代の戦いに天皇が動いたのは、この時だけかも。天皇まで動かし、ひょっとしたら関ヶ原の合戦の勝敗にまで関係していた幽斎は、すごいサムライです。文武両道だったからこそのエピソードでした。
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