織田信長の気象予報――あの合戦に勝利した本当の理由
季節と時節でつづる戦国おりおり第296回
梅雨でございます。空梅雨か、いったん梅雨宣言撤回か、などといわれたものの下旬に入ってかなりまとまって降ったこともあり、ジメジメとしてまいりました。あー、このうっとうしい感じだよね、ってところですな。
今から442年前の天正3年5月21日(現在の暦で1575年6月29日、三河国長篠の南西・設楽原で織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼軍を撃破。「長篠の戦い」。
3000挺の鉄砲三段撃ちについては諸説紛々ながら、筆者としては従来から3000挺も三段撃ちも“有った”、と主張している(内容については過去の著述をご参照下さい)。ただ、すごいのは鉄砲の数と運用方法ではない。当時の鉄砲=火縄銃というものは、一応雨よけなども考案されてはいたものの、雨中では基本的に役に立たなかった。『信長公記』でも他の部分に、雨で鉄砲はまったく物の用に立たず、という記述がある。だから、この時期に大量の鉄砲を遠路長篠まで持ち込んで、それを有効に機能させたこの時期にこれだけの鉄砲を“使えた”ことがすごいのだ。
長篠の戦い前後の天気と信長の動きを見てみよう。奈良と東海地方、遠距離ながら参考にはなる(天気データは『多聞院日記』による)。
【4月】
3日「天気快然」
16日「天気快然」
25日「大雨下、安堵了」
28日 長篠出陣のため岐阜へ戻ろうと京を発する
【5月】
2日「雨」
5日「天気快然」
11日「大雨下」
13日 信長、岐阜出陣
16日「近般炎天」
18日「雨乞い祈祷、早朝から雨」設楽原に布陣
21日「少雨下」(長篠では降らず)
長篠の戦い当日
23日「雨少下」
27日「大雨下」
以上、「下」は“降る”という意味、全般的に少雨傾向ながら、限定的に大雨が降る日もあるという難しい気象傾向の梅雨だったこの年、信長は晴天を選んで軍勢を動かし、決戦日も雨は降っていなかった。
考えてみると、信長の主な戦いというのは、天気に大きく影響されている。
天文23年(1554)の村木砦の戦いでは、暴風雨を利用して伊勢湾を横断し知多半島にスピード上陸、敵の村木砦を攻めるときには信長みずから鉄砲を撃ちまくっているから、このときには晴れていたのだろう。
次に永禄3年(1560)の桶狭間合戦。このときは西から東にゲリラ雷雨が吹きつける間に義元本陣に接近し、晴れ上がると同時に突撃をかけた。
長篠の戦いの前の年には高天神城救援戦で、やはり梅雨の合間を利用して鉄砲決戦を企図していたふしがある。
と、事例を見ていくと、信長がいかに気象予測に秀で、気象を合戦の重要要素として作戦に組み込んでいたかがわかる。当時、大名には「軍配者」といって、天文を読み戦機を測る専門職がいた。まさに現代の気象予報士といったところだが、武田信玄には駒井高白斎、大友宗麟には角隈石宗、島津義久にも川田義朗という名予報士がいた。
信長の場合は軍配者の存在にふれた一級史料が存在しないのだが、そんな軍配者がいたことはほぼ間違いないだろう。ただひとつ、『伊束法師物語』の主役である伊束法師その人が信長の軍配者だった、とも言われるのだが、はてさて真実はいかに。