戦には勝ったのに……哀しきサムライの最期 赤座直保
第二十五回 SAMURAIファイル 赤座直保
名古屋在住、日本大好きラジオDJクリス・グレンが語る、
日本が誇る錚々たる戦国武将たちの魅力。
外国人の目に我が国の英雄たちはどう映っているのか
日本が誇る錚々たる戦国武将たちの魅力。
外国人の目に我が国の英雄たちはどう映っているのか
戦で死ぬのか、いさぎよく切腹をして死ぬのか。はたまた、布団の上で天井を見ながら死ぬのか。「生きざま」「死にざま」は、現代人にとっても大切なことだけど、戦国サムライにとっては、もっと重要だったはず。数々の戦で戦ってきたサムライであっても、すべての者がサムライらしく死ねるわけではない。
織田信長、豊臣秀吉の家臣だった、戦国サムライ・赤座直保(あかざ・なおやす)。
父は織田信長の家臣で「本能寺の変」の時、信長の長男・信忠と共に籠城し、討死したと言われている。信長の死後は豊臣秀吉に仕えた、直保。
1590年の小田原征伐では、豊臣軍として石田三成と共に、岩槻城と忍城を攻め落としている。関ヶ原の戦いでは、西軍・大谷吉継の軍で戦っていたが、小早川秀秋が東軍に寝返ったのを機に、直保みずからも大谷軍を攻撃し、東軍の勝利に貢献した。
が、しかし! 家康に、その功績は認めてもらえず領地は没収。その後は、前田利家の長男・利長のいる加賀へ行き松任城の管理などを任されていた。
関ヶ原の戦いから6年後の1606年、(現在の富山県にある)大門川の氾濫を見回りに行き、濁流の川を渡る途中に落馬し、溺死してしまった。
直保・・・無念。地域の人々を水害から守るための見回りの中でおきた、不慮の事故だったのだろう。さまざまな戦で活躍した赤座直保の最期。「この死にざまをサムライ・直保自身は、どう思っているのかな…」そんなことを考えると、ちょっと切ない気持ちになってしまう、秋の日の午後でした。
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