恐山菩提寺院代のアウトサイダー仏教論。「なんとなく不安」の正体
坐禅で「悟り」は開けない その四
「なんとなく不安」「居場所のなさ」を感じ自分の存在自体を疑ってしまうのは現代の病か。 南直哉禅師がその正体にを考える。約20年の修行を積み恐山・院代となった同師が上梓する『「悟り」は開けない』で語られるアウトサイダー仏教論。「悟り」とは何か――、そして「仏教」とは何か、その本質がわかる。
「なんとなく不安」― その正体を考える
前回紹介した「引きこもり」以外に、今まで私が多く会ってきたのは、「摂食障害」や「リストカット」に苦しむ若者、さらに精神的な不調が過呼吸や対人恐怖の症状に出る人たちです。そして、彼らの話を聞いていると、十中八九、最後に出てくるのは、親子関係から被ったダメージなのです(そうでなければ、小中学校での猛烈な「いじめ」)。
このとき、彼らはそのダメージをはっきり自覚していない場合が少なくありません。そのかわり、身体症状に現れるほど濃度の高い「居場所のなさ」や「なんとなく不安」を問わず語りに漏らすのです。
このことは、他人(「親」)から身体的を与えられ、名前を与えられ、生物的かつ社会的実存としての「自己」を開始する時点でのダメージが、いかに大きな影響を与えるかを如実に物語っています。
ということは、目に見える症状にまで現れなくても、人は誰でも「自己」を「自己決定」や「自己責任」で開始しない以上、自覚の有無にかかわらず、実存の初めから「居場所のなさ」と「なんとなく不安」に深く強く浸透されているのではないでしょうか。つまり、「居場所のなさ」とは、我々の実存自体が、そもそもの最初から、まるごと不安であるという意味なのです。
私が言いたいのは、まさにこの「居場所のなさ」と「なんとなく不安」こそが、「現世利益」のテクノロジーではない「宗教」が根源的に問題とすることなのだ、ということです。
〈『「悟り」は開けない』ベスト新書より構成〉