「コロナ禍」はなぜ全体主義を呼び寄せているのか?(哲学者・仲正昌樹論考)
国民が「強いリーダー」を求めてしまう「落とし穴」と「人間の本性」
■“多数派の過ち”は誰が責任をとるのか?
また、専制君主やその側近は、革命によって権力を失った時、どういう目に遭うか分からないので、それなりに自分たちの決定の帰結に関心を持つ。
しかし、「民主主義」の主人である“多数派”は、誰からも責任を問われ、糾弾されることはない。言葉の定義からして、“多数派”より“多数”の勢力は、存在しない。従って、“多数派”自身が“自己反省”しない限り、“多数派の過ち”が認められることない。
しかし、どうやって“多数派”は“自己反省”するのか?
また、“多数派”が自分の過ちの責めを負うというのは、具体的にどういうことか?
「みんなでやってしまった」ことだということになって、責任の所在は曖昧になり、誰も実質的なペナルティを負わないことになるのではないか。
こうした「民主主義」に秘められた危険は、近代の保守主義の元祖とされるエドマンド・バーク(一七二九-九七)が既に『フランス革命の省察』(一七九〇)で、フランス革命に既に指摘していたし、ミルと同時代のフランスの政治家・政治思想家トクヴィル(一八〇九-五九)は『アメリカの民主主義』(一八三五、四〇)で、アメリカにおける草の根民主主義の定着を称賛しながら、自らの政治的実践に対するアメリカ人たちの過信の内に、「多数派の専制」の萌芽があるのではないか、と危惧の念を示している。フランスの小説家で自由主義思想家のバンジャマン・コンスタン(一七六七-一八三〇)は、フランス革命の恐怖政治のような事態を回避するには、各個人が他者から干渉されないで生きる自由を認め、それを保証する立憲体制を構築する必要があることを主張した。
■「多数派の専制」を防ぐための考え方とは
これらの先行する議論や、一九世紀半ばのヨーロッパにおける議会制民主主義や革命に人々が熱狂している状況を考慮に入れ、ミルは「多数派の専制」を防ぐため、二つの原則を提案した。
一つは、その人の行為が他人に対して具体的な危害を及ぼす可能性がない限り、いかなる他人も当該行為に干渉してはならないとする「他者危害原理」。
例えば、自分の意志で他人の手を借りないで自殺することや、離島など完全に他から隔離された場所で薬物の吸引や暴飲暴食あるいは断食などによって体を壊すことは、他人に具体的な危害を及ぼさないので、法によってそれを禁止する正当な理由はないことになる。「他者危害原理」は、自己決定して良いことの範囲をめぐる議論でしばしば援用される。
もう一つは、「思想の自由市場論」と呼ばれるものである。自由な商取引を通じて、商品の質や生産方法が改善していくように、様々な意見が公共の場で自由に行きかう状態を作り出し、(どこに向かって行くか予測が付かない)人類の精神的発展を促す、ということである。
人は、自分とは異なる意見に常に接しないと、自分の意見が真理だと思い込んで、吟味しなくなってしまう。例え結果的に相手の意見が間違っていたとしても、その意見と戦うことを通して、どうして自分の意見が正しいと言えるのか再考し、理解を深めるきっかけにはなる。双方の意見がそれぞれ真理の異なった側面を表現しているとすれば、二つを突き合わせることを通じて真理の全体像が見えてくる。資本主義を擁護する人と、社会主義を擁護する人が討論することで、双方の長所短所が見え、経済に対する見方が深まっていく、といった具合に。