安土桃山ナニワ金融道の末に
季節と時節でつづる戦国おりおり第438回
ガスコンロの上を歩くような熱さ(あえて「暑さ」ではなく)の中、京都・三条は白飛びしそうな明るさです。その三条の通りから少し南に入った鴨川沿いに、瑞泉寺さんという浄土宗のお寺がありますが、ここはかつて鴨川の中州でした。
今から425年前の文禄4年8月2日(現在の暦で1595年9月5日)、太閤・豊臣秀吉の命により、関白・豊臣秀次の子女・妻妾30余人が三条河原で処刑されました。その中には最上義光の娘で17歳の駒姫(お伊万の方)もいました。彼女は秀次の側室になるため上洛したばかりというタイミングの悪さで、まさに悲劇のヒロインです。
秀吉の甥で現役の関白だった秀次が、突如謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放されたのが7月8日、切腹が7月15日と、立て続けの処置の最終儀式としておこなわれたのが文禄4年8月2日(以上いずれも旧暦)の秀次妻子たちの処刑です。
その凄惨さは「目も当てられぬ体」と『多聞院日記』が記録したほどひどく、「行く末めでたかるべき政道にあらず。ああ、因果のほど、御用心候へ。世の中は 不昧因果の小車や 善し悪しともに めぐりはてぬる」という、有名な落書が豊臣政権の滅亡を暗示したのも当然です。
ただ、この処刑については、秀次の正室・一の台(菊亭晴季の娘)が「金銀過分に菊亭殿の娘奉行にて、方々預けられおわんぬ。曲事(くせごと)とて、究竟(くっきょう)の女姓衆三十四人一度に生害」(同書)と、一の台が関白の権威を背景に金銀を方々に預け利殖していた事が秀吉の逆鱗に触れたというのが一般にコメントされた罪状でした。
この時期、私的融資はさかんにおこなわれ、家康の侍女なども手を出していたようで、公的政権とは別次元で金の貸し借りによる人脈が形成されていました。
秀吉はそういう「闇の人脈」を排除し、実子の秀頼のために一元的な権力構造を確保しようとしていたのでしょう。
※瑞泉寺さんと秀次の墓