わけあってのいちゃもん
季節と時節でつづる戦国おりおり第439回
猛暑、酷暑。京都の町も、ジリジリとアスファルトが焼け付き、コンクリートがはね返す日光が目に突き刺さります。吹き渡る風は、まるでドライヤー(笑)。方広寺のある京都・七条あたりも煮えたぎるようです。今回はその方広寺に関する話題。
今から406年前の慶長19年8月6日(現在の暦で1614年9月9日)、徳川家康の側近・本多正純と金地院崇伝が豊臣秀頼の重臣・片桐且元へ方広寺大仏開眼の式典延期について幕府の意向を伝達しました。
「大仏供養延引の儀、仰せ出され候」から始まるふたりの書状は、式典の段取りについての不備の指摘がなされているだけで、この時点ではまだあの有名な大仏殿梵鐘の銘文「国家安康、君臣豊楽」についての批判はありません。それどころか、家康は一旦4月16日の段階で銘文案に目を通して「その通りでよろしい」と裁可しているわけで、4日前に家康がその内容を知った時に「御不快」(『駿府記』)を表明して「今回の銘文の件は、詳しくもない田舎者に作成させて余計なことを長々と書き、特に家康の名を入れ込んでいるのはけしからん」と文句をつけるのはいちゃもんに過ぎません。この言い分を正当化するため、家康はわざわざ京の五山の学僧たちに諮問して「家康の名をふたつに切り、豊臣を君として楽しむという呪詛だ」と強引に結論づけるのですが、それはあくまで別の話で、注目すべきは延期命令の時点では鐘銘問題は主論点にはされていない、という事です。
事実、大坂の陣で豊臣家が滅んでからも方広寺の鐘銘はそのまま残っていますから、現実主義者の家康としても鐘銘なんぞに呪詛の文言があろうがなかろうが、大して気にはしていなかったし、実際に呪詛の意味など無かったのでしょう。
ではなぜ、あとづけで呪詛とまでこじつけてでも、当初の延期命令に固執したか、ですが、家康はこの8年前に「武家の官位は、すべて幕府の推挙によって決定する」という綱領を朝廷に受け入れさせています。
ところが、今回の問題が発生した直前に秀頼は片桐孝利以下の家臣たち十四人を諸大夫(しょだいぶ)に任命しており、これは武家官位を幕府が取り仕切るという綱領の原則に反するもので、豊臣家は徳川幕府の制外である、という事をおおやけに宣言したのと同じ事ですから、家康は「頻(しき)りに御不審の由仰せらる」(『駿府記』)と強い不快感を示していました。
家康は、鐘銘問題に事よせて片桐らの方広寺大仏殿再建の労をねぎらう諸大夫成(しょだいぶなり)という根本問題を世間にはカムフラージュし、式典の延期によって豊臣家が問題の根本を認識して幕府の指揮下に入ろうとしてくれる事を期待したのですが、その結果は大坂冬の陣につながることは御存知の通りです。
※京都・豊国神社にある旧方広寺大仏殿の梵鐘とその銘文