病気をうつすことは「罪」なのか?【哲学者・仲正昌樹論考②】
コロナ禍で、「緊急事態宣言の再発出やロックダウンを強く要求する人たちに言わせれば、コロナを他人にうつすのは殺人に等しい。風邪やインフルエンザを他人にうつしてしまったからといって、社会全体から非難の対象にされるというようなことはほとんどなかった。AIDSのように深刻な症状をもたらすものでも、少なくとも現在の新型コロナの場合ほど、“感染源“が激しく追究・糾弾されるようなことはなかった。」(仲正氏)。マスコミだけが煽っていることではない。一般市民の間でも日常に起こっている現象のひとつだ。
これはいったい、社会と人間に今何が起こっているのか?
哲学者・仲正昌樹氏が新刊『人はなぜ「自由」から逃走するのか~エーリヒ・フロムとともに考える』(KKベストセラーズ、8月24日発売)で、「コロナ問題が人々の不安を募らせるなかで「大衆の心理」と「人間の本性」をあぶり出していると指摘する。差し迫る社会変動に対して緊急書き下ろし論考第2回を公開!
■他人の行動に干渉してよい場合とは?
ジョン・スチュアート=ミルは『自由論』で、他人の行動に干渉してよいのは、その行動が周囲の人に危害を及ぼす可能性がある場合だけだ、と主張した。他者危害原理と呼ばれるこの考え方は、近代自由主義の基礎になった。
法や政治は、どのような崇高な理念をあげるものであれ、何らかの形で個人の自由を制約する。道路交通法は、自動車や自転車の運転の自由を制限する。建築基準法は建物を建てる自由を制限する。刑法は社会的に許されない諸々の行為をリストアップする。これらの法律が正当化されるのは、他者に危害を加えることを防止するためである。
逆に言えば、他者に危害を加える可能性がない行為の領域においては、各人は全面的に自由である。
「自由の名に値する唯一の自由は、我々が他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を妨害しない限り、自分自身の幸福を自分自身のやり方で追求する自由である」
このミルの定式は、日本国憲法で「幸福追求権」と呼ばれているものの標準的定義である。互いに相手の幸福追求に干渉する必要のない、私的(private)な領域が確保されていることが、自由な社会が成り立つための前提である。
■他者に対する「危害」とはなにか?
問題は、他者に対する「危害」をどのように規定するかである。
例えば、社会の「善良な風俗」を害するような行為を、他者に対する危害と考えるべきか。ミルはそうした行為が公然と(publicly)成されるとすれば、犯罪として取り締まることに正当性があるかもしれないと述べているが、「善良な風俗」というのはかなり曖昧な観念である。
例えば、排せつ物など近寄ったら悪臭のする不潔な物や、殺戮や拷問などの場面を示す写真や絵画・彫刻を、公衆がうっかり目にしてしまう場所に展示すれば、それによって苦痛を覚え、気分が悪くなる人が少なくないので、「善良な風俗の侵害」であり、他者危害原理に引っ掛かると考える人は少なくないだろう。
無論、全然平気だという人もいないわけではないし、そうしたモノを公共の場に展示することをコンセプトとする前衛芸術もあるので、100%確実に他者危害原理違反と言えるわけではない。
では、ポルノなどのいわゆる猥褻な映像・画像などの場合はどうだろう。不潔な物と同じように考えることもできそうだが、それを見ることでかえって快楽を得る人も――本音としてはかなり――多いので、苦痛の総量が増加したことをもって、「善良な風俗の侵害」と考えるのは難しい。多くの自由主義的国家では、女性を中心に強い不快感を覚える人が一定数いることや、成長途上にある子供にどのような影響を与えるか分からないなどの理由から、公共の場所での展示に法的制約をかけることが多い。
では、ごく私的なサークル――あるいは、メンバーが限定されているという意味で「私的」なネット上のサークル――でのライブセックス・ショーとか、売春のような行為についてはどうか。
「私的なサークル」は、ミルの定義によれば、自己決定権を最大限に行使できるはずの領域だ。そこに、公共の場での猥褻物規制と同じ種類の理由で規制をかけることは、「他者危害原理」の観点から正当化できるのか? 自分と同じ社会にそういう卑猥な行為を行っている人がいると思うこと自体が苦痛だという人もいるだろう。世論調査をすれば、そういう意見が過半数を占めるかもしれない。